青翠雨 −アオイ アメ−




















むせ返る新緑の清々しさは透明な滴に打たれて尚のこと香気を増し、僅かな湿度の中を快い冷気とともに立ちのぼる。

乾いた地面に染み入った水で濡れた黒土の匂いが鼻孔をくすぐり、嗅ぎ慣れたそれに鼻をひくつかせていると卒然吹き抜けた微風に香りはあえなく散って、消え去る匂いの代わりに押し寄せる青葉の鮮やかな薫香が、青空から緩やかに降り注ぐ雨水をことのほか爽快に感じさせて止まない。

羽柴秀吉は喉の奥でくすくすと小さく笑いながら、髪と肌に触れる雨の柔らかさに丸い双眸をそっと閉ざした。うつ伏せた痩躯の胸から上は濡れ縁とともに雨水に濡れそぼっていたが、夜着とする白い小袖に包まれた下肢はひやりとした畳の上で、密やかに褥から抜け出した自身の悪戯を楽しむみたく、膝から先を持ち上げ宙空で踊らせる。
秀吉の身を包む布地は腰にふわりとまとわりつく小袖のみであったが、五月の下旬、夏が色濃く香る季節、汗を癒す優しげな風に交じる涼しさは薄い肩を冷やすこともなく、まして全身をほんのりと灯す体温を奪い取ることもなく、裸の四肢は心地よい大気に包まれ弛緩していた。

気持ちが良いのは何も風や空気だけではなく、視界を埋め尽くす木々の緑と高く光る空の青もまた、日々繁雑な職務に追われる心身から疲労を拭い去ってしまう清しさに満ちている。煩瑣な毎日の中で心に止まっていた疲れや苛立ちなどの塵がごとき感情は綺麗さっぱり掃き去られ、吹く風の爽快さと一体化した軽やかな気分が思考よりも感覚を触発して、晴天から降り注ぐにわか雨に打たれることをすら楽しい遊戯の一つとして胸に小さな高揚をもたらした。肩を滑り背のくぼみに伝い落ちる滴のこそばゆさが、叩くというより、打つというよりも、むしろ撫で触れる柔和さで濡れ縁に頬を預ける秀吉の身に注ぐ。

早朝からまばらに降り出したこの雨は、昼近くになっても一向に止む気配はなかった。不思議なことに雨は陰鬱な曇天を呼ぶことなく、露草の花の色をした青空からぱらぱらと絶え間なく落ちてくる。雨雲のない天空から音楽を刻む軽快さ落ちてくる水滴の透明度は、澄み切った深い青の色彩を映して地に落ちるその瞬間まで青天の美しさを失わない。白い雲が淡く太陽光を遮る快晴の空の、どこからやって来るのかも知れない雨水の不可思議に秀吉はふふと口端をほころばして、狐の嫁入りじゃなぁと心中でゆったりと呟く。

士官先を得て今現在は部将という肩書を持つ身分に成り上がったとはいっても、元は農民を出自とする自分にとって、この季節は妙に喜ばしい時節でもあった。田植えに駆り出され、腰が痛くなるまで稲の苗を植え続けなければならなかった忙しさに追われる日々の中でも、無尽蔵ともいえる子供の体力は田植えの合間に遊ぶだけの余地をいくらでも残し、仕事が終われば近所の子等と一緒になって海原のように波打つ草原に戯れたものだった。高く澄み渡る空の青が苗を植え終えた田圃の水面に映りこみ、鏡みたく飛ぶ鳥の影を写して輝く様は何よりも美しく、小高い裏山から一望する村の水田が一様に青空に染まる光景は、毎年眺め見ていても頬がほんのりと熱を増す程に鼓動を弾ませた。山菜を摘みながら走り回った山道には豊かな若葉が延々と影を作り、汗を冷やす夏風の涼味とあいまって小さな体躯の温度を緩やかに癒し、目一杯肺に吸いこんだ空気は水を飲み干す涼やかさで乾きを潤す。鳴き交わされる様々な鳥の声、生い茂る草木の多彩な濃緑、瞳孔に染み入る澄んだ空の紺碧、いよいよ訪れる生命の季節を謳歌する自然の光輝、それらすべてを潤す風の淡い冷たさ、ただ野原に寝転がるだけでも、ただ川に爪先を浸すだけでも、自分にとっては嫌なことを忘れ去ることができる心地よい季節だった。

実父の死により母は家族を養うため再婚したが、新しくやってきた継父は毎日酒を飲んでは秀吉に手を上げ、出て行け、野垂れ死んでしまえと自分を口汚く罵った。無論、そんな継父との折り合いは悪く、秀吉自身、殴られることを嫌って家にいる時間が自然と少なくなっていったが、初夏の野山に身を置く時、心によどむ苦痛と悲哀は吹き払われるように薫風に攫われてゆくのだ。涙ごと傷ついた胸の痛みが青い嵐にかき消され、心奥に穏やかな静けさが駆け抜けてゆく時の安堵は、今でも自分をひどく穏和な気持ちにさせた。

心地よい季節。心地よい空気。そして、幼い頃には得られなかった心地よい……。

閉じた瞼に触れた雨粒が睫を伝い、ぽたりと濡れ縁に落ちる。
首を僅かに振るって解けた髪にまとわりついた水滴を払った秀吉の足首がにわかに、大きな手につかまれた。気づいて上体を起こそうとした秀吉をからかうように、その手は力任せに足を引っ張ると、体勢を崩した痩躯を引き寄せ堅い腕に抱きこむ。そして、腰の小袖を鬱陶しげに放り捨て取り去ってしまうと、おもむろに褥から起き上がった巨躯が秀吉の背にのしかかり、捕らえた四肢を両腕の中で仰向けに反転させた。無理やり上向かされて秀吉が微苦笑を漏らすと、雨に濡れた唇を唇でふさがれる。覆いかぶさるたくましい巨躯が雨を遮り、快く濡れそぼつ自身の戯れは妨げられてしまったが、裸体のまま密着する体と体の温度が、口づけの深みに苦しくなる呼吸が、適度な温もりを宿していた秀吉の躯幹に炎のような熱さを蘇らせた。

夜毎味わう苛烈な熱度が羞恥とともに全身を満たし、身じろぐことすら忘れて口づけを受ける自分を揶揄するみたく、太い首が揺らいで喉元が蠢く。噛みつく強さで唇をむさぼっていたそれが些に離れて口唇の端や瞼の上をなだらかに滑りながら、痺れる甘みを含んだ低音で問いかけられる。

「いかがした」

と、そう尋ねる声音に含まれた艶やかさに鼓膜がじんといやらしく震えて、秀吉は密着する下肢をもぞもぞと動かし、な、何も……と消え入りそうな声で応じ、目の下を赤く染めて顔を背ける。しかし、そんな自分を聞き分けのない稚児のようだと言わんばかりに鼻で笑い飛ばし、彼の人は尚も雨水をまとううなじや首の付け根に口づけを降らせた。
「かような所では御体が濡れてしまわれますで」
中にと苦しまぎれに言を継いだ秀吉の、些少赤くなった頬の上にわざとらしく音を立てて接吻を見舞った彼の人の、口角に張りついた余裕の笑みが悔しくて、微かに眉宇を濁すと再び短い笑いが喉元から響いた。腰を抱いていた腕はするりと下方に落ち、双丘を広い掌中に包みこんで、柔軟な肉をやんわりと指先で愛撫する。もどかしい接触のこそばゆさにひくひくと痩身を引きつらせ、殿と思わず声を上げた自分の頬に骨張った太い指が触れて、降り注いだ雨の滴を五本の指の背でやんわりと拭い去った。

熱くなる体とこみ上げては頬を焼く羞恥に喘ぎながら、ずるい御方だと愛しさをこめて心の奥底で呟いた秀吉は、自分の頬を包む手に手を添えて広々とした肩口から見える青空の輝きに目を逸らした。それを責めるみたく、鎖骨に落ちた口唇が淡く歯を立て皮膚に赤い跡を刻みこむ。
「褥を脱し、いずこへ逃れおったかと思うたが」
耳朶に噛みついた唇が、半ば憮然とした語調で言って低く笑った。
「小童がきがごとき為様を」
濡れた秀吉の肩口を撫でて仕様もないといった風情で二の句を継いだ端麗な面に柔らかな笑みを滲ませた彼の人に
「気持ちのよい天気だったもんすから」
そう微苦笑で答える。すると、目だけで上空を瞥見した鋭利な双眼が秀吉を熟視して、ほう? とさもおかしといいたげに広い双肩を重く揺らした。確かに青空と風は爽快であることには違いないが、降り続く雨までもが「気持ちのよい天気」に含まれる矛盾がおかしかったのだろう。

彼の人の熱心な熟視に止むなく屈し、鉄色の双眼に視線を重ねて炎の激しさと風の穏やかさが揺らめく瞳を懸命に見つめ返す。喉の奥が熱く潤ってじわじわと自分の内部を侵食する震えるような温度に何故か泣きたくなったが、彼の人の唇が眦に触れて滲みそうになった塩水は辛うじて眼窩に止まった。雨と同じ、否、雨よりも鮮やかに、幾度となく降り注ぐ口づけにとろりと瞼を落としながら、彼の人の筋肉質な背を濡らす雨を手で払う。子供の頃を回顧する、自分の思いつきによる戯れに巻きこむつもりはなかったが、目の前の人物が秀吉と二人きりで過ごす時、気まぐれにじゃれ合う遊戯を何よりも好むと分かっているからこそ、雨に濡れることをこれ以上咎める気はなかった。

恐らく、自分が褥を抜け出していた時には目覚めていたはずだろうに、声をかけることも身を起こすこともなく、わざと秀吉の様子を観察していたに違いない彼の人の意地悪い沈黙に、再び声なく、ずるい御方じゃな……と吐露する。自分が責めることも拗ねることもできないと熟知しているからこそ、彼の人は揶揄をしかけ悪戯に秀吉を羞恥に陥れるのだ。しかし、てのひらの上で底意地悪く愛でられても、少女のごとき純情で胸を熱くさせてしまう自身が最も質が悪いのだとも分かっていて、秀吉は眉をひそめ堅く目を閉ざし、頬にひろがってゆく紅潮を必死に堪えた。

「一時目を離さば、この様よ」

双眼をすがめて口端を釣り上げた面は、軽々しい口調とは裏腹に叱咤に似た厳しさと呆れが滲んでいた。猿めと彼の人自らが命名した秀吉の渾名を口にして溜息をついた黒鉄の瞳が、自分を映して愛しげに細められる。熱を含んだその視線から思わず目を逸らした秀吉は、ふるりと肩を震わせて眉をひそめた。真摯に自分へと向けられる情愛の強さを痛感する毎に胸の奥が息苦しく締めつけられて、いてもたってもいられない、逃げ出したくなるような気分に陥ってしまうのだ。一途に苛烈に、愛を与えられることに不慣れな自分にとって、彼の人の情熱をどのように受け止めるべきか分からなくて頭が混乱してしまう。
だが、頑是なく顔を背けて目をつぶることしかできない自分の痩躯を益々強く抱き寄せ、そっと額と額を重ねた彼の人の形の良い唇が

「我が手より逃るることは許さぬ」

命じるより柔らかく、鮮やかな愛おしさを伴って囁いた。秀吉は鼓膜を撫でる低い声の穏やかさと甘さに酔いしれながら、甘やかな衝動を訴える体躯を小刻みに震わせ、はい……と我知らず、促されるままに頷いていた。
安息を与えてくれる腕の中に閉じこめられたこの身に口づけが降る。雨と同じ柔らかさで、風と同じ確かさで。子供の頃、自分がとうとう手に入れることのできなかったものを、彼の人は惜し気もなく注いでくれるのだという幸せに心が打ち震えている。両の頬を包む大きな手の甲に怖ず怖ずと指先で撫で、触れる唇と唇の合間から自分が恋する純粋さで慕い想う

「信長様……」

愛おしい主の名を呟いて秀吉は深く交わされる口づけに瞼をゆるりと伏せた。


主と自分しか知り得ない秘匿の館の、秘密の部屋に自分達は今いる。

互いの職務上、長くは留まることができないので三日間という短い日数での滞在ではあるが、平素なかなかには主従の立場を崩すことのできないもどかしさを思えば、三日であっても二人きりで過ごせることは率直に喜ばしいことだった。初めて出会った頃から寸分も違わず、互いを愛し求め続けてきた自分達にとって、日常のしがらみを脱ぎ捨てることのできる瞬間は一刹那であろうと貴重であり、寸刻も無駄にはできない大切な時間なのだ。触れ合うために、抱き合うために、心を確かめ合うために、微睡みの狭間にも指を絡ませ吐息を交わす。心地よいと思うのも感じるのも、すべては主の側にいるからこそ得られる優しい感触。

甘く唇から吐息が滑り落ちた。何者の目も耳もないこの空間で、昨夜から重ね合わせていた肌は互いを熟知し過ぎている程に知り尽くし、ただ素肌で抱き合うだけで体温と鼓動が急激に上がってゆくのが分かる。秀吉はそろりと両腕を伸ばして主の首にすがりついた。主は濡れた髪に指を絡ませ、耳元に唇を寄せて身内がうずくような甘美な低音で、愛い奴と囁く。耳朶が痺れてしまいそうで顔が熱くなった。とくとくと心臓が脈打って触れ合うだけでは得られない染み入るような温かさが心奥に灯る。もどかしげに畳をさまよう爪先とおぼつかなく揺れる腰は主の腕に捕らえられ、厚い胸板に収められてしまった躯幹の真芯から、主に触れて欲しい、触れたいと望む熱情が迫り上がっては理性を溶かし落としていった。秀吉は全身をくまなく撫で上げてゆく主のてのひらの気持ち良さに双眸を恍然ととろけさせ、微かに開いた口唇から熱い溜息をこぼす。


心地よい季節。心地よい空気。そして、幼い頃には得られなかった心地よい温度と安息。


小さな部屋の密やかな時間、自分は清しい心と体に白熱を刻まれながら、青くきらめく雨の中で愛する人の息遣いに耳を澄ませる。唇に肌に心に、重なる主の温もりにうっとりと思考を溶かされながら降り注ぐ至福にたゆたい思うのだ。


何よりも心地よい。
雨も、風も、抱擁も。


そして、自分は。

青い雨の滴る美しい季節に、余分なものを拭い去った心に、ただただひたすらに、貴方の愛だけを刻みたい。













09/05/24 加筆修正
09/05/28 再加筆修正