春の体温



















爪先が痛かった。

指先も耳朶も、体の末端はとうに冷えきって赤く染まっている。
冷たく凍える箇所から水に落ちた染料のように寒さが浸透し、じれったくなる程緩慢な速度で身内から確実に体温が奪われてゆくのが分かった。枕元に置いてある火鉢の炭は既に燃え尽き、吹きこむ寒風で僅かに赤く燃え上がるのみで暖を取るには心もとない。先刻から無人であった寝台も肌を刺すほどに冷たい寒気に晒され、凍える自身の末端と同じ些少の温もりさえも蓄えてはいないだろう。
しかし、ひんやりとした皮膚とは裏腹に、鷹揚な鼓動を繰り返す心臓は炎を宿しているかのごとく熱かった。無音に近しい空間の中で耐えがたい冷気に包まれていても、胸の奥底で脈打つはそれは油を注がれたみたく熱度を増してゆく。温かい心臓から送り出される血液は一度の拍動で全身を疾駆し、熱を奪われた部分に温もりという極上の慰めを与えてくれる。冷たい皮膚の真下ではたぎるように熱い血潮が巡り、その温度差でぞわぞわと粟立つ感覚が絶えず続いた。

羽柴秀吉は薄く開いた障子戸から無表情のまま外にある暗黒を覗きこむ。一人で眠るには広過ぎる部屋の片隅で畳の上にうつぶせて惚けている姿は、平素の自分を知る者にとっては滑稽に見えるかもしれない。夜着として身につけた白い小袖は痩躯をうごめかす度に乱れ、裾は大きく開いて両脚の大腿までめくれ上がっていた。無作法な姿ではあったが大きく開いた裾を気に留めることもなく、時折両足を持ち上げてはふらふらと宙を舞わせ、再び畳に爪先を据えるといった仕草を無意識に繰り返しながら、秀吉は、ふっと小さく溜息をついた。途端、唇から滑り落ちた吐息は色濃い白に染まり一瞬で霧散して夜闇と同化する。
生来体温が高いせいなのか、冬場であっても秀吉は極度に寒いと感じたことがない。体の真芯にまで浸潤する凜列な空気の中にあってもそれは変わらなかった。昼頃からちらほらと舞い始めた雪のせいで、今夜は特に底冷えする。火鉢の準備に慌ただしく駆け回っていた侍従や小姓達の様子を思い出すと、己の様は見ているだけでも寒さを感じるには十分なものだろう。秀吉は色合いのなかった相好にうっすらと苦笑を滲ませ、頬にかかる髪を指で払う。元結から解放された栗色の髪は項を柔らかく覆い、眼前の隙間から吹き込んでくる微風と同等の冷たさで肌をさいなんだ。しかし、しっとりと纏わりつく柔軟な感触は、いつの間にか体温によってその冷気を溶かされ、ぬるく項を包みこむ。厳寒にあって日向の暖かさと同じ温和を保つ自身の体温はひどく心地よく、冷え切った布団に潜りこむ気には到底なれない。褥が暖まるまでに自分の熱はすべて奪われしまうからだ。

ほっそりとした首をもたげて頬杖をつくと、秀吉は先程から眺めていた暗夜を飽きずに見つめ続ける。庭園に配された篝火が朱色の輝きで夜陰を焦がし、淡く照らし出される地面は砕いた水晶を散りばめたかのように白銀の輝きを反射していた。地にあるもののすべては、朝を待たずに白い世界に埋没する。音もなくうずたかく重なりゆく薄氷は、よどんだ雲に覆われた夜空から間断なく降り注いでいた。寒さに凍える者の恨み事を意に介するふうもなく、延々と降り積もってゆくことだけを繰り返す無情は、あまりに純粋でいっそのこと美しい。秀吉は垂れ目がちな双眸を忙しく移ろわせ、暗闇を舞い落ちる白い雪を目だけで追った。
食うものもなく飢え、身を休める家を持たない人間は、この雪と寒さで大半が死に絶えるだろう。痛みも恐れもなく、眠りについたまま魂ごと凍りつき死んでゆく。苦痛なき死を与えるものならば雪は残酷というより、むしろ慈愛に満ちているのかもしれなかった。
若くして故郷を飛び出した自分にとって、冬の雪は他人事ではない。食うに困ることなど、それこそ毎日のようにあった貧窮の生活を辛うじて凌いできた身には、白銀に埋もれて死んでゆく人々の運命が極身近なものとして感じられる。一歩間違えば自身もまた柔らかな氷の中に埋もれて息絶えていただろう。そうならなかったのは、今現在自分が仕えている主のおかげだと言っても決して大袈裟ではなかった。

秀吉は一度睫を伏せ、せめて雪が止むことを祈るように願って眉宇を些に濁した。こんな日は一人でいると気が滅入る。
かといって、無断で部屋を移動する訳にもいかなかった。ここは自身の屋敷でも城でもない、主の居城だからだ。

機嫌奉伺のため岐阜城に登城した秀吉だったが、実際の目的は別にあった。無論、自身が任されている仕事の進捗状況や、諜報活動で入手した情報を逐一報告し、主から指示を仰ぐことが登城した一番の理由ではあったが、登城する際は必ず三日程度泊まることを想定して予定を組んでいる。案の定、主は城下にある旅舎に下がろうとした秀吉を引き留めて城に泊まれと促した。辞退する理由もないのでその言葉に甘え昨夜から主の居城に寝泊まりしている。そして、これも予測の範疇ではあったが、昨晩は主の寝所に呼ばれた。

何故自分なのだろうかという疑問と同時に、自分だからこそだという答えも出てしまっている。織田信長という自身の主が、目に見えてではないにしろ秀吉に固執する理由と意味を自分は最早理解しているのだ。だからこそ拒むことはできない。また、受け入れることにも嫌悪を感じない。

信長であるならば、差し出せと言われたすべてを差し出しても悔いはなかった。この世で唯一、自分が命を賭して仕えるべき主人と信じた男であるからこそ。何を命じられても応えたかった。それだけではなく、主の欲するすべてを満たせる人間でありたかった。仕事の面だけではなく精神も肉体も、主が求めているすべてに応じられるように。
例え主を違えようと、自身の働きが主人の不利益になるような真似など秀吉は決してしない。むしろ、自身の主人となる人間には最大限の利益をもたらすため、誰に望まれずとも自ら奔走するだろう。しかし、そんな自分のささやかな努力はいつのときも報われることはなかった。仕事をする程に主に可愛がられ、主が自分を可愛がる程に周囲の人間は秀吉を妬み嫉んだ。いかに他人の嫉妬や不興を買うまいと努めようとも、自分がよい仕事をすればやっかみを買う。人をやっかむぐらいならば、自分より更によい仕事をして主を満足させればいいと秀吉ならば考えるが、現状を満足とする人間には必要以上の努力を厭う怠惰が必ず存在する。要するに秀吉に嫉妬する人間は、大した働きもせずに己の自尊と地位だけは確実に維持したいという卑怯な人間なのだ。それを馬鹿馬鹿しいと一蹴できるのならばまだましだった。だが、今まで秀吉が仕えてきた主人は、働いて恩に報いる自分ではなく、働かずして恩を貪る連中を擁護し、家中の諍いを避けたいという名目で尽くしてきた秀吉を解雇した。

さしたる仕事もせず、人の陰口を叩くことに夢中になっている人間が優遇され、必死に働く自分が冷遇されるという矛盾した現実はいつも秀吉を打ちのめす。自分のやり方が間違っていると考えたことはない。しかし、こうして何度となく否定される苦痛は、肉体に与えられるそれよりも遥かに心をさいなんだ。自分の働きを認め、理解してくれる主など存在しないのではないかと絶望を感じたことも幾度かあった。そういう諦観を必死に振り払いながら、誰に何を言われても極力陽気に振る舞い続けた。持ち前の陽気さと前向きさがなければ今頃自分は、立身出世を諦め生きることに悲嘆し、骸となって道端に転がっていたことだろう。必ず自分を理解し、よりよく使ってくれる主人との出会いがあると信じていなければ、否定され無理解に晒される苦痛を耐え忍ぶことはできなかった。
やり場のない不満と不服、自身の能力を最大限に生かせる場のない鬱屈した苛立ち、日毎に募る憂鬱を押し殺して一日一日を砂を噛むようにして生きた。懸命になって自身の主人となるに相応しい人間を探し求め、様々な情報を集めて士官先を吟味する日々が長く続いた。一度も接したことのない人物を他人からの風評だけで判断することは困難で、どの国のどの大名に仕えるかを決めるのは正に博打に等しい。乱世ともなれば他国から攻め滅ぼされる危険性は常について回る。最も肝心なことは容易に滅ぼされない賢さと強さを合わせ持つ主人を選ぶということだ。自身の運を試される決断でもある。これで外れのくじを引くようならば、貧困から成り上がるなどということは最早夢想にしか過ぎない。

そして、自分は数あるくじの中から最大の当たりくじを手にすることに成功した。

織田信長という唯一無二の主を選び、仕えることを許され現在に至る。仕えて幾許もなく直感した。この男は終生自分の主足り得る存在になるということを。

主の理想や信念は秀吉にとって合理的で利にかなっており、諸国を放浪し多種多様な職業を経験した身には、古い慣習や通例という非合理的で進化のない凝り固まった考え方よりも現実的で魅力的だった。どちらかといえば、信長の思考論理と将来展望は自分にとって最も納得しやすいものだった。身分差という隔たりもこの信長という主人に限っては無用に壁を感じさせるような厳然たるものではあり得なかった。

通常ならば滅多に接することのない御家を担う当主と身近に接していたせいなのかもしれない。知ったというよりは肌で感じたと表現する方が正しいだろう。主は絶えず何かに飢えていると悟った。それは物体的に何かが不足していることからくる飢渇ではない。
主の心に住む痛みと酷似した飢えが、自分の胸裏にこびりついていたものと寸分も変わりないという事実を解することに、秀吉は大した時間を必要とはしなかった。それは同じ飢えを抱く者にしか感知することのできない特殊な手触りとして、理性の及ばない意識の底に疼いている苦痛なのだ。理解という信頼、受容という愛情、それらを得られないことへの絶望的な飢餓感、信長は自分と同じ孤独を抱えていた。
自分は他人事とは思えない程の切なさで瞬時に主の胸奥に潜む痛苦を知った。そういう自分の機微を信長はやはり他人事とは思えないぐらいの速さで悟り、秀吉を側に置いた。

初めて体を求められた時も驚きはしなかった。そうなるだろうと予測していたからだ。主も自分も、ようやく得た理解者をもっとよく知りたかった。もっとよく知り、もっとよく知られたかったのだ。そのためには言葉や行動だけは足りなさ過ぎた。
肌が触れても違和を感じないまでに、無性に主の体温を恋しく思うまでに、数えることもままならない程何度も何度も体を重ねて、互いを知ったと感覚的に理解した次に、主はどうやら欲が出たらしく、求められずとも差し出したはずの秀吉の心までもよこせと言う。なんとも性急な、そして、切実な要求に、秀吉は主の純粋な欲深さを愛しいとすら思う。主は自分のすべてが欲しいのだ。自分が主こそすべてと崇拝するのと同様に。所有物としてではなく、秀吉の持ち得るあらゆるものを、物理的にも心理的にも自分のものであると確信したがっている。主と秀吉が他人である限り、手に入れたという実感など、ほんの一瞬しか得られないものだと分かっていながら、それでも。

昨夜、明け方近くまで挑まれた痩躯には、いまだ鮮やかに愛撫の感触が居残っていた。思い出せば下腹が疼く程に緻密な動きで肌を這い回る指先と唇で、誰にも見せたことのない自分をさんざんに暴かれる。時折皮膚の数箇所が鋭い痛みを発するのは、主が歯を立て独占欲を誇示するかのように痕を刻んだせいだろう。尻の奥底から不意に突き上げてくる鈍痛に、ぞくりと嫌悪ではない寒気が背筋を伝った。行為の後に残される感触と感覚は体に快いものではなかったが、主の手によってもたらされたものというだけで不快感は消えてゆく。纏わりつくように執拗な倦怠感さえも疎ましいとは思えず、秀吉は思わず喉の奥で短い笑いを押し殺した。
主従の関係としては信長と自分のそれは正常でないものだと言ってもよかった。だが、自分達にとっては、これが正常なのだ。誰がどう糾弾しようとも変えることのできない関係だった。互いに痛感している。主でなくては、自分でなくては、互いの心身を満たせることはできないと。

現在では身に余る役職を与えられ多忙な身となったことで、主と対面する機会は身分が低かった若い頃よりも格段に減った。そのため頻度は落ちたが、顔を合わせる機会があれば信長の寝所に呼ばれることになる。だからこそ、毎回登城の際には滞在日数を多めに見積もることにしていた。明日は自身が封じられている出城に帰らねばならないが、今宵も主に呼ばれるのではないかと気になって迂闊に寝入ることができない。

主を受け入れた時の疲労を残す痩躯には、寒さも加わり睡魔の誘いが殊更響いた。音もなく降りしきる白い凍りの花々を無駄に数えながらも首が傾く。退屈を嫌う秀吉には無為に流れ去ってゆく時間程手持ち無沙汰なものはない。とはいっても、時間が時間なので下手に物音を立てることもできず、苦肉の策として思いついた暇つぶしが降る雪を数えるという、途方もなく馬鹿げたものであった。勿論、無聊に無聊を重ねるのに等しい退屈しのぎでは眠気を追い払うことは中々難しい。
もう寝てしまおうかという誘惑が、しきりと小さな体に忍びよってきて四肢を弛緩させた。全身にゆるゆると染みこむ眠気に負けそうになり、かくりと首が傾くとつられるようにして瞼も重く落ちる。が、途端に秀吉はぶるりと大きくかぶりを振って、眉間を指で解すと幾度か乱暴なまばたきをし、再びしんしんと舞い落ちる雪に目をこらした。
ああっと口内で苦く呟いてから、どこまで数えたんか忘れてしもーたわ……と胸中で半ばうんざりしながらも数を忘れてしまったことに落胆したが、両肩を落として大きく嘆息した後、すぐに、しゃーないと一人ごちて再び最初から雪を数え始める。一、二、三、四、五、六と忙しく数を重ねてゆくと自然、熱中することができた。どのような下らないことであっても、一度集中すれば没頭できる質の秀吉にはこの暇つぶしも最初の内は確かに待ちぼうけていることを忘れるには最適な遊び事だった。飽きてくるのは五千を越えたあたりからで、さすがに一万近くを数え切ったところまでくると眠気に襲われた。

五十、五十一、五十二と数えることに意識を傾けながらも、雪が地に降り立つ音さえも逃さぬ勢いで耳を澄ませている。自分を呼びに来る小姓の足音が聞こえはしないかと常に気になっていた。
しかし、そろそろ限界でもある。ふわっと大きな欠伸を漏らして、秀吉は目端に滲んだ涙を指の背で拭いながら、千まで数えたら寝るか……と心中で漏らした。どうやら今夜はこのまま足音が聞こえなければ何事もなく眠れそうだった。にわかに、それはそれで寂しいかもしれない、などと思ってしまい苦笑する。

女を愛するのとも、家族や友人を愛するのとも違う、確かに愛情と呼べるものでありながら、主を慕う感情には互いの間に他者の介在を許さない強固な根深さがある。共に笑い合い共に生き、幸福を分かち合う優しく穏やかな情愛でもあり、性欲を処理するためだけの交わりとは違う、互いの身体でなければ得られない充足を求める激しい情熱でもあり、理性で制御できる欲かと思えば、愚かにも直情的に振る舞わせる衝動を与える、絆のように鎖のように断ち切れないこの想いは、どちらかが欠けても途切れることなく続くのだろう。だからこそ、誰を恋しく思うより主を一途に想って止まない。疲れているにもかかわらず、抱かれないことを寂しいなどと思うのは自分でも相当に重症だという自覚があった。

秀吉は暗黒の中で散り落ちる冴え冴えとした純白を目で追い、百二十二、百二十三、百二十四と数を刻む。百七十五、百七十六、百七十七と心中で数える声に耳慣れない音が微かに重なる。素早く刻まれてゆく数字と機敏に重なるその音は次第にはっきりと鼓膜を刺激した。足音だ、と気づいたのは音が大分鮮明に聞こえてくるようになってからだった。小姓達のものと若干異なる素早くて乱暴な歩調は、どうやら秀吉のいる寝所に向かっているらしい。秀吉の宛てがわれた部屋自体が母屋から離れた場所にあるため、人がいる場所というと自身がいる寝所しかない。小姓や侍従達が向かうにしても他に思い当たる目的地がないのだ。
「おっ」
来たかと密やかに独白して、秀吉は上体を僅か起こし寝台に戻ろうとしたが、一度打ちこんでしまうと中々切り上げることのできない性分が邪魔をし、双眸は頑固に雪を追っては数え続けていた。
その間も足音は近づいてくる。随分と粗雑な所作の小姓もいたものだと内心些に呆れつつも、主のお呼びがかかったであろうことに少し嬉しくなってしまう。寝入ってしまわずによかったとほっと息をつき、ちょうど二百まで数え切ったところで立ち上がって寝台に飛びこむ。体温を得られなかった褥は氷のように冷たく、秀吉の痩身を包みこむ布地は凍える大気よりも寒々しく感じられた。秀吉は頭まで布団の中に潜りこみ、身を丸めて、うひゃあと声を上げる。冷えきった布に体温は奪われ、一気に躯幹が凍えて震えた。小さい両手でしきりに肩口をさすってみても熱は思うように集まらない。忙しく足や手を擦り合わせてどうにか温もりを取り戻そうと努める。赤くなり始めた指先にふうと息を吹きかけてから秀吉はふと気づいた。

足音が消えたのだ。

布団から渋々顔を覗かせると、さっき自分が庭を眺めていた障子戸越しに人影が映し出されていた。小姓の誰かがやってきたのかと思い、上半身まで布団から這い出る。だが、ひどく奇妙な感じがして秀吉は眉をひそめた。
人影は秀吉の倍はあろうかという巨体に見受けられる。篝火以外に光源のない闇夜で、日光が作る影法師みたく影の大きさが歪むとも考えられない。知りうる限り信長づきの小姓達の中にはずば抜けて身長の高い人間はおらず、自身の寝所の前に凝立している人影が何者なのかは特定できなかった。にわかに不気味になって身を強ばらせた秀吉は、脱いだ着物とともに火鉢の傍らに揃えて置いてあった腰刀に手を伸ばす。秀吉が腰刀の柄を握り締めたのと障子戸がゆるりと開かれたのはほぼ同時だった。
静かに、しかし、すらりと素早く開かれた戸から、室内に思いがけず光が差しこんだ。深く暗い夜の曇天は篝火の輝きだけで照らし出せるものではない。月夜のごとく凛と差し入る明かりが、立ち尽くしていた人影の足元に淡い影法師を投じている。自身の寝台まで長く伸びる影を凝視し、秀吉は微かに眩しさを覚える程度の明るさが降り積もった雪のせいだと知って、ぶるりと薄い肩を震わせ腰刀から手を離した。開かれた戸からきんと張り詰めた寒風が吹きこむ。

うっすらと闇に淡く浮かび上がる白雪を背にする人影の顔は、一層黒い闇に覆われ顔の判別はつきにくい。だが、六尺を上回る身体から発せられる異質な程に独自の雰囲気と、この寒さの中にあっても冷気を跳ねのける気勢を備え、美しく直立する姿勢の良さは秀吉にただ一人の人物を特定させるに十分だった。
「寝たか?」
人影は後ろ手に障子戸を閉めるとおむろにそう問う。愕然と双眸を丸くしている秀吉の顔は見えているはずなのに、わざわざ意地悪く問う低い声には明らかに笑いが含まれていた。内心、まったくこの御方は……と呟いて、揶揄じみた問いを投げかける相手の態度に笑い出したくなるのを堪える。秀吉は、いえと首を左右に振って寝台から出ると、正座し両手を畳みについて深々と頭を下げ
「起きておりまする」
とわざと仰々しく返答した。人影は、で、あるかなどと最もらしく頷いて腕を組み、喉元で低く笑う。秀吉もまた顔を上げ、苦笑い面をほころばせたが、自身に歩み寄る人影から目を逸らさず
「信長様」
と半ば戸惑ったようにその名を呼んだ。

今まで主の寝所に呼ばれることはあっても、主が秀吉の寝所を訪れたことはなかったので、一体何の考えがあって信長が自身の目前に立っているのかは推察の余地もなかった。白い小袖を纏う姿は主が先程まで床についていたのではないかということを連想させたが、もし眠っていたのならば何故唐突に小姓を一人も伴わず離れにやってきたのか、理由は秀吉にも判断し兼ねる。
「いかがなされました?」
怪訝な面持ちのまま尋ねると、主はくっと短く笑う。遥か頭上から低音ながらも滑らかに響く声音で
「分かっていることを然様に訊くか。とぼけおるわ」
と咎めるのにも似たからかいを交えて返答が降ってきた。秀吉はぎくりと痩躯を引きつらせる。確かに分かりきったことを質問した自分の軽率に顔が熱くなるのを感じて目を伏せた。夜、寝所に呼ばれるにも訪れるにも、いずれにせよ主が自分に対して伽を所望していることには変わりないだろう。あまりにも卒然に信長がやってきたので自身でも気づかない内に慌てていたらしい、普段の秀吉ならばこのような失敗はしない。
とはいえ、このまま口を噤んでいると主は羞恥に返す言葉を失った自分を更に揶揄で攻め立てるだろう。しかも、自身が主の腕の中でしか見せない痴態を暗に示すような極めて質の悪い揶揄を用いて。考えただけでも恥ずかしさで目の下が赤く染まった。秀吉ははっとして心中、いかんと気を取り直すと、笑みを浮かべ努めて朗らかな声で、いえいえとかぶりを振った。
「殿のなさることは、わしごときに予測もつきませぬ」
それにと言葉を継いで信長を見上げ
「わざわざ、某の寝所においで下さるとは……」
そう素直な驚きを吐露した。頭上で、ふっと笑いとも呆れともつかない溜息の気配がする。立っている時でも主の顔を見上げて話をする秀吉には、正座した状態だと尚更凝立した信長の顔は見えず、表情を窺うことは難しい。主の言葉を待つ間、困惑の色を深める自身の面に気がつく余裕も逸して、正座したまま膝上で落ち着きなく手を握り締めたり解いたりすることを繰り返していた。
戸惑う秀吉の姿を楽しんでいたのか、やや間があってから信長は
「寒いのだ」
端的にそれだけ言った。
「はぁ……?」
予測に反して至極当然の事柄を口にした主に、秀吉は頷くのと訝るのとが交ざった珍妙な語調で応じる。が、すぐに、ああっと手を打った。
「確かに今宵は冷えますなぁ」
快活な物言いに戻って、いかにも寒そうに両腕で自らの体をさすった。いまだ要領を得ない主の言葉に、秀吉は胸中で首を傾げることしかできない。恐らく信長は、平素の機転を忘れて、惚けた顔をしたまま状況を飲みこめないでいる自分の様子を楽しんでいるに違いないと分かってはいたが、だからといって、寒いと言われた言葉にどのような意図があるのかまでは汲み取れなかった。堪り兼ねて闇夜に溶けこむ主の顔を上目使いに一瞥すると、巨躯がふいと足を進める。
「うぬの褥に入れろ」
「と……申しますと?」
自身の脇を通り過ぎ、先程秀吉の横たわっていた寝台にいきなり寝そべった主の姿を唖然と眺めながら尋ねる。すると、焦れたように信長が長い眉を微かに跳ね上げ、双眼に険を滲ませた。
「言葉の通りよ。はよう、せい」
言われても尚主の意を理解することができず、取られてしまった自分の寝場所を見つめて秀吉は当惑した。困り果てた末に怖ず怖ずと
「えー……と、どのようにすればよろしん」
語尾を言い終えるすんでのところで太い腕に腰を攫われ、強烈な力に引き寄せられる。
「来い」
返答など聞く耳持たぬといった風情で信長が冷たくなっていた寝台に秀吉を引きずりこんだ。引きこまれながらも思わず
「殿っ」
と狼狽して大声で呼ばうと即座に手で口を塞がれた。
「黙っておれ。人が来るであろうが」
「まさか、どなたにも告げずに寝所を抜け出してこられたちゅう訳じゃあ……!」
秀吉は、ええっと驚いて両目を丸くした。無礼とは分かっていても反射的に信長の手を口元から剥ぎ取って、肩越しに主の渋面を非難がましく瞥見すると鼻で笑われる。
「寝る場所を変えるごとき、いちいち言うておく必要などないわ」
「そりゃあ、まずいっす! 朝になったら騒ぎになりますわ、せめて蘭丸殿には」
慌てて起き上がり寝台から飛び出そうとすると、冷たい手に足首を掴まれ勢いよく引っ張られる。うはっと声を上げた時には秀吉の体は前のめりに倒れ、畳に突っ伏していた。強かに鼻と額を打ちつけて短く呻いたが、足首を掴んでいた主の手にそのまま引っ張られ、うつ伏せの状態で布団に引きずりこまれて再び寝台に収まるはめになった。
「黙らぬか」
溜息交じりに苦く命じる信長に、無言のまま何度も頷いて見せた秀吉は、我慢できずに鼻と額を押さて、っつぅ……と痛みに肩を縮める。あまりにも唐突だったため手で庇う暇もなく顔を畳に強打してしまった。信長はそんな秀吉を凝視して益々顔をしかめたが、それが苛立ちや不機嫌のためではないということは分かっている。悪かったと思ってはいるのだろうが、詫びの言葉は決して口にしない、主のどこか捻くれた愛情表現や言動には慣れ切っている秀吉にとって、自身の鼻先にある信長のしかめ面は一番の詫びであるに等しい。涙の滲んだ双眸で口を噤む主をちらりと見ると、平素は鋭利な光を宿し人を威圧する両目が自分をひたに熟視していた。

眦の吊り上がった双眼は何もかもかもを見通してしまいそうな程に強い眼光を放ち、鷹の目を思わせる清澄の中に冷酷と厳格を内包している。この鋼の色をした目で睨まれれば誰もが脅え、視線を重ねれば気圧され偽りを吐けなくなった。一瞥で人の正鵠を掴み握りとる主の両目が、このような褥の最中で自分を映す時だけ限りなく優しげな静穏を湛える。主の先鋭な眼光に慣れている秀吉には、逆にこの穏やかさが怖かった。いつでもこの目に射られると無闇に脈拍が乱れ、体温が上がり思考がまとまらなくなる。自身どうすればよいのか分からなくなってしまい、そんな狼狽しきった自分が嫌で目を合わせるのが恐ろしくなってしまうのだ。その癖、一度重ねると目線を逸らせなくなる不思議な引力を持ち、主の熟視から逃れたくとも逃れられない。
秀吉は奥歯をぐっと噛み締めやっとの思いで主から視線を背ける。すると、温かい吐息とともに耳朶を苦笑が過った。いつもならば、秀吉が目を逸らした途端、信長の巨躯に組み敷かれ、帯を解かれて荒々しく着物を脱がされる。そして、荒く口づけを見舞われ、確かな重みの下で、空が白むまで体の外も中も徹底的に支配された。

熟視から逃れた瞬間のしかかってくるであろう頑強な体躯に、自分でも自覚していなかった、ほんの微かな脅えを覚えて四肢を小さく引きつらせる。主の顔を直視できず真一文字に結ばれた薄い口唇を見つめた。視界の端で主の喉が声なき笑いにうごめいたのを、秀吉は怪訝に思ってそろりと信長の双眼に視線を重ねる。
主が寝所に来た時から平常とは異なる状況が続いていた。またしても同じことが起らないとは言い切れない。秀吉はじっと主を凝視した。すると、薄く笑みを浮かべた信長は吐息交じりに首の裏を掻いて
「今宵はせぬ」
安堵せいと仕様もないといった口調で語尾を続けた。多少驚いて目を見開いた秀吉の襟足に信長の冷たい指先が触れ、反射的にひくりと肩を揺らす。それを身を引こうとしたと取ったのか、主の手は大きなてのひらに髪ごと項を包むと力任せに引き寄せて秀吉の頭を胸に収めた。

せぬ、というのは抱かないという意味で間違いはないだろう。珍しいことをおっしゃるのう? などと心中で暢気に首を捻る秀吉の髪に、堅い皮膚に覆われた太い指が絡んだ。触れる仕草は決して丁寧なものではなく、ある種粗雑にさえ感じられるぎこちなさを伴っている。時折、神経質に感じられる程の繊細な所作を見せる主の手先は、他者を慈しむ術とて知っているはずだった。だが、己の掌中にある存在を欲する激情と愛おしむ丁重との合間を行き来する感情が、指の末端にまで粗略にも感じられる強ばりをもたらすのだと分かっていた。判然とは分からない、だが、自分に触れる時にだけ滑らかさを失う主の挙止動作に含まれた意味に、らしくもなく自惚れる。秀吉は唇を噛み、目の下が熱くなるのを必死に拒んだ。嫌な感情だと知っていても、主従らしからぬ接触を重ねる度に家臣としてではなく主に愛される歓喜が、自分を付け上がらせて止まない。

顔が火照る。紅潮していると察して顔を下に向けた。胸中で忌ま忌ましげに自身を、あほうめと罵る。主と在るこの褥から今すぐに抜け出したいと思う程に、羞恥が秀吉をいたたまれなくさせた。

しかし、信長の両腕は痩躯を捕らえて離してはくれない。痩せた腰に絡みついた腕の堅い筋肉が、脂肪の少ない肉体を締め上げるように抱擁している。やんわりと抱きこまれ、布を介していても温もりは鮮やかに体中へと行き渡った。が、安息を与える温度の中にあっても、激しく掻き抱かれ肌を暴れそうな甘い緊張は消えずに自分の躯幹を捕縛している。今にも崩れそうな危い均衡に細胞の一つ一つが不満げにおののいて、率直に反応する下肢の奥底が熱を帯びた。

不意に髪をもてあそんでいた指が項を伝って襟元から入りこみ、素肌の肩を柔らかく包む。ほんの少し前までは冷たかったその手が、汗を滲ませる程に熱くなっていることに気がつき、冷たい皮膚を焼く主の体温に僅か顎を反らせる。慣れないことをしているせいで、普段ならばしなくてもいい我慢を強いられて辛かった。それは主とて同じなのだろう、先程から不自然な沈黙が続いている。
押し殺した羞恥が過ぎ去ると、今度は黙りこくる主の様子がおかしくなって、秀吉はつい小さく吹き出してしまった。問いかけはしないが、自分が笑ったことを胡乱に思っているであろう信長に
「雪が降ったんわ、殿が珍しきことをおっしゃるせいでございましょうか」
くくくと忍び笑いで言葉を締めくくりながら伝える。得心いったのか耳朶の近くで舌打ちが響いた。
「うぬがこれ以上下らぬ軽口を叩けば、すぐにでも気が変わるぞ」
あながち嘘とも思えない言葉に、おお、恐ろしゅうございますなと応じ、秀吉が大仰に身震いして躯幹を萎縮させると主の喉が短い笑いに鳴った。

なにとはなしにおかしくなって肩が揺れる。込み上げてくる笑いの波で腹の筋肉が小刻みに震えて僅かな息苦しさ覚えた。声が漏れそうになって口元を手で押さえると、指の隙間から忍び笑いがこぼれる。このような至近距離で己の主人と会話している状況の異常さが、ひどくおかしくて仕方がない。今日は意外なことばかりが立て続けに起こるせいで、秀吉自身もまた予測もつかない言動を取ってしまうようだ。
主は秀吉が笑う理由を汲み兼ねているのだろう、眉をひそめて端麗な顔貌になんともいえない苦さを浮かべていた。
「何を笑う」
当然の疑問に、なんとか笑いを押さえてふうと息をついた秀吉は渋面の主に笑顔を向けた。
「翌朝の騒ぎを想像しておりましたれば」
実際は何かを想像して発生した笑いではないのだが、これ以上の言い訳は思いつかない。途端
「わしに厭味を申すか、貴様」
むっとしたみたく眉間に皺を刻んだ信長に顎髭を引っ張られ、いたあっと決して大袈裟ではなく悲鳴を上げる。
「違います、違いますって……っ」
秀吉は涙目になって小刻みにかぶりを振り、髭を握る手を必死に取り外そうとした。お許し下されぇ〜! と懸命に訴えると信長は満足いったのかにっと笑って髭を離した。その代わりなのか、突然秀吉の額を指で弾く。あてっと声を上げて力が加えられたままに頭を後方に反らせると、大袈裟な奴よと主に笑われた。
主には厭味ととられてしまったが、秀吉にとっては騒ぎになるであろう翌朝のことは重大な思案事項だ。顎と額をさすりながらも、どうするべきか頭を巡らす。

平常、一頻り体を重ねて主が満足したならば褥から出てゆくのが当然なのだが、秀吉の場合は大抵信長に捕まってしまい、それができない。主が寝入ったと思ってそろりと身を乗り出し、脱ぎ捨てられた夜着に手を伸ばすと、主の大きな手に阻まれ這い出た寝台へ即座に引き戻されることが度々ある。今朝方もやはり褥を抜け出そうとした秀吉は脱走半ばに捕らえられてしまい、不機嫌そうに眉間へと皺を刻んだ主の両腕に堅く束縛され、結局小姓達が起こしにくるまで同衾するはめになった。案の定、起こしにやってきた小姓は信長と自分のあられもない姿に驚き、慌てて引っこんでしまったことは記憶に真新しい。主従における衆道は珍しいことではないが、関係を結んでも朝まで同じ褥で眠るということはあり得ないと言っても過言ではない。

だが、元々小柄な自分と巨躯といっても差し支えない主の圧倒的な体格差では、体力、腕力面でも抗うことは不可能だと分かっていたので、無駄に苦言を呈したり抵抗などして信長の機嫌を損ねるよりはおとなしく従った方が無難だった。何しろ、こういった私事において一度主の不興を買うと後々仕置きが怖い。厭味や皮肉を言われるだけならばまだしも、秀吉の場合、主の仕置きが行われるのは夜伽の際と決まっていた。常日頃から苛烈であるものを、この上まで仕置きが加わるようではさすがに身が持たない。
自身が早めに起きて小姓を呼んでくるにも、勝手に抜け出したとなれば信長の機嫌を損ねることには変わりない。加えて、主はどうやら誰にも断らずに自分の寝所にやってきたらしいので、朝方ものけの空となった褥を発見されれば信長が消えたと大騒ぎになるだろう。今宵は添い寝で済んだものの、伽をするよりも悩みの種は尽きない気がしてならない。ああっと思わず心中で叫んで秀吉はがくりと肩を落とす。どちらにせよ、自分が一番損をすることは避けられそうにもなかった。

げんなりと嘆息を漏らして秀吉は主の胸板に頭を預けた。
「蘭丸殿はさぞやお怒りになられましょうな……」
特にわしに、という語尾はあくまで胸中で続ける。

蘭丸とは信長が重用する小姓の一人で、姓を森と言った。秀吉は蘭丸と親しく会話を交わすことも多いのだが、彼は真面目である分少なからず頭が堅い。信長のこういった突飛な行動に彼はあまり良い顔はせず、殊に主の行動の先に秀吉がいる場合などは決まって自分に苦情を言いにきた。何故信長を諌めてくれないのか、咎めてくれないのかと切々と垂れ流される苦情には、毎度のことさすがの秀吉でも辟易させられることがしばしばだ。無論、彼とて秀吉に憤りを向けるのはお門違いと頭で分かっているのだろうが、だからといって信長本人に苦情をぶちまける勇気はないのだろう。
「捨て置け」
はっと鼻で笑い、手をひらひらと舞わせる主の顔が面倒そうにしかめられる。秀吉は、はははと笑いで応じつつも、胸中で蘭丸に些少同情して微苦笑を漏らした。

ところでとおもむろに言われ、秀吉ははたと気づいて主を瞥見した。
「よいのか」
口角を吊り上げて要点のみを口した信長に嫌な予感を覚えつつも、惚けたふりを押し通して、何がでございますか? と問い返す。何げなく信長と目線を合わせて秀吉は微かに身を痙攣させ閉口した。

烏羽を思わせる深い漆黒の双眼に獲物を吟味する獣の獰猛さがちらついている。既に捕縛された獲物を繁々と凝視する嗜虐の中に、肉を貪る愉悦と淫靡が陽炎のごとく揺らめいている主の瞳に、秀吉の背筋を落ち着かないこそばゆさが走り落ちた。ぞくりと身内に広がる衝動は、いやらしく脊髄を刺激して体中が一気に発熱したように熱くなる。
よく知っている目だ。何度となく主自身に貫かれ、分別を失い乱されるまま乱れる自分を眺める際に見せる雄の目。組み敷いた獲物を心ゆくまで貪る、本能のまま荒ぶる獣の。

秀吉は体躯を退かせようとして、なんとか思い留まる。今、体を退かせれば、主は抱かないと言った言葉を覆し自分を抱くだろう。夜毎この獣に食われる己の身にも、獣の好む反応を直感的に判断することのできる本能が備わっている。
逃げ出したくなる衝動をぐっと堪えて秀吉は朗らかな笑みを浮かべ小首を傾げて見せる。興を殺がれたのか、信長はふんと鼻を鳴らして双眼に元の静穏を滲ませた。
「うぬに寝る気がないのであれば、わしの気も変わる」
確かにこの状態で眠らずに会話を続けていれば信長の気はきっと変わるだろう。
「あっ、寝ます」
慌てて、普通に寝ますと更に重ねて言を継ぎ俯いて瞼を伏せた秀吉の耳殻を主の指がつまんで容赦なく引っ張る。あいたたっと痛みに喚いて引っ張られるまま顔を持ち上げると、指はふいと耳から離れ秀吉の顎を掴み取った。

片手で耳をさすっていた秀吉の、への字に曲がった唇を噛みつくのにも似た口づけが卒然襲う。一瞬息を呑んだ秀吉だったが、逃れることも退くこともせず、おとなしく瞼を伏せた。呼吸を奪われた息苦しさに喉を鳴らすと、僅かに離れた主の口唇が瞼に落ちる。思いも寄らない場所に接吻を見舞われ、瞼をぴくりと動かした秀吉の耳に低く笑う声が触れた。閉ざされた瞼を滑り落ちて頬を伝ったそれは再び口唇を塞ぎ、じゃれつく軽さで下唇に歯を立てる。肩を力ませて顔を些少背けようとすると、許さないと言わんばかりに後ろ髪をやんわり握られてしまい顎を反らせた。瞬間、吐息ごと飲みこむ深さで唇を奪われる。呼吸を塞がれた苦しさに喘いだ秀吉の喉元を主が指の背で撫で上げ、親指の腹が頬を優しくくすぐった。にわかに唇が離れ、喉で滞っていた空気を、はあっと吐き出した秀吉は無表情な信長の顔を睨むように強く見つめてから目線を逸らした。室内の暗さで判別はつかないだろうが、自身の赤くなった目の下を主に見られまいと手で覆ってしまってから心中で唸る。
このままでは自分の方こそ気変わりしそうで怖い。

「どうした」
「いえ」
尋ねられ間髪いれずに返事をした。動揺を悟られたくなかったからだった。
「もう、お気が変わられたのかと」
そう賺さず二の句を続けた自分に対し信長は眉をしかめる。
「変らんとしているところだが」
憮然と返されて秀吉は、はははと作り笑いで返すしかなかった。ふうと小さな溜息をこぼし、両目を閉じていよいよ四肢から力を抜いた秀吉は
「おやすみなさいませ」
と律義に一礼してから、二人分の体温で心地よい暖かさを保つ褥と頑丈な主の胸に身を預けた。目を閉じれば、睡魔に誘われるまま意識は闇に溶けこんでいく。


外気が殊更冷えているせいだろうか、全身を包む主の温度にひどく安堵を覚え、とろける意識の狭間で秀吉は、くっと短く笑った。


この寝台にだけ春が訪れたように暖かい、と。