そうしろと返した時には彼の躯幹がじょじょに弛緩してゆくのが腕から伝わる。

ほんの十を数える間もなく、痩躯は末端まで完全に脱力しきっていた。寝つきの早い彼のこと、最早微睡む間もなく深い眠りの最中に心身を預けているだろう。いつも寝入る段になると寝つきの悪い自分は彼に取り残されてしまう。

ようやく静寂に満たされた室内は皮膚を刺す冷気に包まれ、息を吸いこむと肺にまで凍える空気が忍びこんでくる。一つ落ちて積もる度に温もりを盗み取っていく夜雪の寒さは、布団に潜り身を縮めても満足のいく暖をとることはできないだろう。だが、二人分の熱ともなると話は別だ。

信長は部屋の隅にうずくまる夜陰を睥睨して奥歯を緩やかに噛み締めた。腕に閉じこめた温もりは炎のように心を焦がす。しかし、肌に触れる温度の柔らかさは春日を抱いているのに似て、心地よく意識を溶かし眠りを誘う。抱かないと言った手前堪えるには手厳しい状況であるにしても、じりじりと身内を焼く欲求は噛み殺す他やる方ない。
早まった、と苦く笑って自身の眼下にある部下の寝顔を覗きこむ。屈強な猛者が揃う織田家中では珍しい小柄で華奢な体は、およそ武士には似つかわしくないが、逆に言えば、この小さな痩躯で数々の戦を生き抜いてきたのだから、たくましいと言えばたくましいのかもしれなかった。

温度の高い彼の体を緩い力で更に抱き寄せて吐息をつく。火鉢の熱では得られない温もりが触れた箇所からじんわりと染みこみ、冷たくなっていた体の末端に彼から伝わってきた体温が巡って優しく温度を取り戻した。それと同時に、触れていると血液が煮えたぎるように熱く震え、心臓が高熱を蓄えてはらわたが痛む程に体の内部が熱くなる。ふわふわと頬に触れる栗色の髪に鼻を埋めると、その冷たく柔らかい感触にさえ皮膚を焦がされるようでやり切れない。

いっそ叩き起こしてやろうかと刹那、自棄にもなったが、ただ添うて眠るだけの夜も悪くはないと無理やり自分を納得させて奥歯をじんわりと噛み合わせる。信長は、やはり早まったと再度胸中でこぼして渋々瞼を閉ざした。光の消え去った真黒の闇の中で、一際暖かな温度が自身の傍らにあるという感覚だけが鮮やかに焼けつく。

昨夜のように貪るという表現がこの上なく的確な情交を今求めても、自身の腕の中で安らかに眠る痩躯は決してそれを拒まないだろう。強く掻き抱く度に腕や胸板に触れる素肌ごときしむようにたわむ四肢は、いつのときも自分を拒絶したことは一度としてなかった。例え拒絶したとしても、彼のそれは許さない、許せないと自分でも分かっているのだ。拒絶も逃走も抵抗も、もしそのいずれかを彼が選択したとて自分は決して認めず受け入れもしない。自分の手から去るというのなら縄や鎖で締め上げても引き留めて離さないし、自分の手を拒むというのなら傷つけようとも享受と柔順を強いる。

手放したくない。ただ、それだけだ。
手放すつもりもない。誰に非難されたとしても。

自分が欲しているのは、単なる人の温もりではなかった。理解でもない。まして、愛でもない。自分が愛する者の温もりであり、理解であり、愛情を、血を吐くような飢えと渇きの中で欲している。

誰でもよいという訳ではなかった。誰でもよいのならば自分は今夜ここには来なかった。

酷烈な飢渇が体を、心を、彼を望む。理性で戒めても根源的な欲求は、時折制御を失い獣のごとく暴れ狂った。あらゆる意味で彼が欲しい。だからこそ、手に入れることができるであろう術のことごとくを試した。その中で最も効果的だったのが、彼を抱くということだっただけに過ぎない。誰を愛するのとも違う愛し方でなければ、彼のすべてを知ることはできなかった。

一度欲を出せば際限がなく、真実満たされることは難しい。自分もそうだ。この目で、この手で、この唇で、彼を知り、彼を暴いたと確信した次の日には、既に不足感を覚えている。自身の手にあるべきものがない虚ろな物足りなさを。
しかし、彼は小姓や侍従ではない。れっきとした武将の一人であり、戦場においてこそ真価を発揮する人間だ。下らない自儘のために彼の才能を腐らせることも許せず、間断なく仕事を与えてこき使ってきた。常に傍らに置いて愛でることなど彼自身が最も厭うと分かっているのだ。自分が彼に失望したくないように、彼を失望させるような真似もしたくはない。

厄介なと胸中でこぼして信長は目を閉じたまま口角を吊り上げた。昨夜、彼を抱いて手にした実感は最早掌中に微塵も残されてはいない。今宵とて手にすることを求めたそれは、確かに今この手にあり腕の中で息づいている。朝目覚めれば必ず胸奥にこびりついている不足感も今はなかった。だが、やはり抱けばよかったと思ってしまうのは、恐らく自分がそうしたかっただけのことで深い意味はないのだろう。今日を逃せば当分は秀吉と顔を合わせる機会はないので、余計未練がましくなってしまうのかもしれない。

淡く眠気に誘われる暗黒の最中で、いい加減諦めもついて信長は心底から溜息を漏らし躯幹を脱力させた。平素の自身よりも寝つきが早く感じられるのは決して気のせいではない。身じろぐ気配を察して薄く瞼を持ち上げたが、視界の端に彼の頭を捕らえて再び双眼を閉じると、いよいよ眠りの波が重たく押し寄せてきた。



寒さを退ける日差しの温度に打たれて、今はただ、眠る。

その心地よさに寝入りばなの恍惚が重なり、春辺の草原に寝転がって微睡む喜びを錯覚した。
積もりゆく雪の残酷を子守歌の優しさと勘違いしそうになるのは、春の温もりを腕に抱いているせいだと溶け落ちる意識の狭間で苦笑する。
らしくもないと自分でもおかしくなった。だが、おぼろげに滲んでゆく思考では誤魔化しの言葉など考えつかず、極自然に本音を吐露する。



たまには、良い。





こんな夜があることを、今は。