年甲斐にもなく可愛げのある反応なのだ。

主がからかいたくなるのも分からないではなかった。
そればかりではない。

単なる役目として肉欲を満足させるだけの存在ではない分、主の寵愛も度を越えていると言ってよかった。軍議や評定では見事なまでに主従以上でも以下でもない態度、言葉、表情を見せる二人だが、職務を離れると平常の厳格や柔順をすっかり忘れてしまうようで、城下で催事がある日などは、二人してふいと姿を消してしまうことも少なくない。彼が主を諌めてくれればよいものを、主の悪のりに率先して参加するようでは諌言など期待はできなかった。

ころころと移ろう表情や多少大仰とも思える仕草や反応、およそ闘争とは縁遠い容姿や性分であるはずが、武勲こそ顕著でないにしろ、戦となれば誰もが想像し得ない知謀と策略を展開し、戦況を見分ける本能的な嗅覚にも優れている。その癖、陰惨な雰囲気は皆無に等しく、黒目がちな大きな双眸で人をじっと見つめてにこりと笑うと、太陽の輝きを思わせる快活さを見せた。怒りも嫉みも憎しみも、彼の笑顔の前では気勢を失い、ただただ無力に退く他ない。

彼を嫌悪する人間の大半は、彼本人というより彼の出自に対する偏見と差別を根強く持っているように思う。それだけ彼の人柄は他者にとって嫌悪に値しない快いものでもあった。当の自分ですら例外ではない。羽柴秀吉という人物とは、一片の後ろ暗さすら感じさせない日輪のような人だという評価は、今日まで自分の中で覆されたことがなかった。

森蘭丸は密やかに嘆息をついて、優美な面に微かな苦みを滲ませる。

視界が霞む程の湯気が充満した湯殿はあらかた掃除し終えて、熱気の籠もっていた狭い空間に格子戸から涼風が注いだ。襷でまとめ上げているとはいえ、跳ね上がった湯が染みた小袖と袴は、気色悪い感触を伴って皮膚に張りついてくる。早く着替えたいという欲求を押さえて今一度湯殿を見回した蘭丸は、よしと満足げに呟いて自身の仕事の出来栄えに納得した。浴槽に向き直り、間断なく湯気を立ち上らせる湯に指先を差し入れると、熱すぎもせず温くもない。心地よい適温に頷いて、蘭丸はそそくさと壁に立てかけてあった板で浴槽に蓋をした。うっすらと汗の滲む額を手の甲で拭い、引き戸を開けて湯殿を出ると簀の子の上で濡れた足から水滴を振り落とす。


今朝方、主君信長の寝所に出向いた蘭丸は、障子戸の向こう側で平常とは異なる事態が起きていることを即座に悟った。勘というよりは、思い当たることがあったのだ。昨日から秀吉が機嫌奉伺のために登城してきており、夜も更けた頃主の寝所に呼ばれていた。秀吉が信長の寝所に呼ばれることは別段珍しいことではないので、蘭丸自身どうとも感じていなかったのだが、朝になるまでそのことをすっかり失念しており、挨拶の言葉を口に出してからようやっと思い出し胸中で、ああと頷いた。

障子戸を隔てていても二人が何事かひそひそと話をしている気配は察することができた。秀吉がまた主の悪ふざけに悩まされているだろうことはすぐに知れて、蘭丸が再度戒める強さをこめ信長の名前を呼ぶと、しばらくしてから、待てと応じる声があった。寸刻の沈黙の後、入れと命じられて障子戸を開くと、小袖を着こんだ主の姿と寝台に転がる不自然な布の塊が目に入った。始めは訝しんでいた蘭丸だったが、瞬時に塊が秀吉だと気がついて不覚にも吹き出しそうになってしまったことを、みっともない真似をしそうになったと恥じ入りながら思い出す。

信長は塊をじろりと睨んでから憮然と吐息して蘭丸に向き直ったが、おかしくておかしくて自分の方が顔を上げることができなかった。やっとの思いで笑いを押しこめて、朝餉の支度ができておりますと告げた自分の言葉に耳を傾ける主の足元をふと一瞥すると、塊からそろりと細い腕が生えて、畳に打ち捨てられていた小袖を掴み取る瞬間を目撃してしまった。最早笑いを堪えるのは不可能に近しく、蘭丸は思わず、くっとほんの微かに吹き出してしまっていた。必死になって笑いを押し殺したが、我慢する程両肩が震え顔が熱くなる。自分の様子に気づいた信長は、下を向いて彼の手を発見した途端、片側の眉を跳ね上げて小袖を勢いよく踏みつけた。小袖を取り返そうと引っ張る彼の力は、布を押さえる主の足に阻まれ中々望む物を手に入れることができない。主は何事もなかったように、しばし後にゆくと答えて腕を組み、彼の手を見つめて悪戯を思いついた子供みたくにっと笑った。彼が懸命に小袖を引っ張れば引っ張る程、寝台の上にある布の塊がじたばたと蠢き、蘭丸はあまりの滑稽な姿に辛抱堪り兼ね、承知致しました、失礼しますと震える声で口早に断ってから逃げ出すように廊下を急いだ。そして、厠に飛びこむと壁に縋って心ゆくまで大笑いしたのだった。

思い出して緩む口元を心中で叱咤し、蘭丸はわざとらしく咳払いをする。周囲には誰もいないが、それでも自分の思い出し笑いを誤魔化したかった。職務に集中するよう自戒して、今朝目撃した布の塊のことは一旦忘れ去る。早くしなければ湯が冷めてしまうだろう。笑っている場合ではない。

湯殿から出て、部屋の前に控えていた侍女の一人に
「秀吉様をお連れするように」
と告げる。侍女は恭しく頭を垂れて音もなく廊下を歩き去った。彼女の背を見送り、今度は自身が部屋の前に座して秀吉を待つ。

主は既に湯を使い終えており、今頃は朝餉を食べ終えて彼と雑談を交わしているだろう。同衾の翌朝は信長も秀吉も湯を使うため、朝餉と平行して風呂の支度をする今朝は蘭丸にとっても慌ただしい朝となった。朝食の膳を用意するのは自分の仕事ではないが、城内に満ちる倉卒とした空気に何かしら急かされる思いがする。朝から湯殿で働いていた蘭丸は、やっと得られた小休止に肩を僅か落とした。秀吉が来るまでの短い休憩だが、一息つくには適度な空白だろう。
落ち着くと思考は自然に仕事とは関係のない事柄に及んだ。一刻程前、先に湯を使った信長の、珍しく上機嫌な様子がにわかに思い返され、蘭丸は些に唇を噛む。

彼が登城した日の主は殊に機嫌がよかった。他愛のない雑談に花を咲かせている時であっても、同衾した翌朝であっても、一目顔を合わせて別れる時ですら。平常から贅言を好まない信長が見違えたように饒舌になるのは、秀吉を相手に会話をする時だけだった。気に入った家臣と話をしていても、何か気に障ることがあれば即座に機嫌が悪くなる気難しい主の性分を知っていればこそ、彼と相対している際に変わることのない上機嫌は、稀なことと言っても決して大袈裟ではない。彼もまた例外ではなく、主と接することを心の底から喜び、楽しんでいるように見受けられた。

自身の胸奥で淡く重みを増す確信とともに、蘭丸は睫をそっと伏せる。
最初の印象は阿吽の呼吸で通じ合う悪友、次に水魚の交わりと例えるに相応しい絶対の主従、そして、最後に感じたのは、人間関係におけるあらゆる情愛を具有する無二の存在だということ。
主と彼との関係というのは多彩な面を持ち、いずれかの一つに絞ることは不可能に近かった。例えるのならば、二人にしか理解のできない共通言語のようなものを持ち合わせ、他人には到底分かり得ない感覚や感情を共有しているように思う。他者の介在を許さないのではなく、介在することができない領域で互いを理解しているのだ。だからこそ、誰かが入りこむ余地がない。また、どうあっても割って入るのであれば、片側の殺害、もしくは略奪をすら覚悟せねばならないだろう。奪い取った所で完全に引き離すことなど、やはりできはしないだろうが。

人の魂に形があるとしたら、各々の形は個々の性情と同じ、あらゆる面において異なる。だが、稀に同じ形の魂を持ち合わせる人間がいて、そして、出会ったのなら、同形のそれが共鳴し合うことは誰にも止められない。触れれば尚のこと、離れていても殊更に、絶え間なく響き、絶え間なく息づく、決して代替えのきかない結びつきは、どのように阻害されようとも、いつか必ず出会う運命にあるのかもしれない。


羨ましい。


無意識に脳裏へと浮かび上がった言葉に眉をひそめて俯いた。

自分ですら信長に彼のような愛され方をされたことがない。確かに寵されていることに間違いはなかったが、それはあくまでも蘭丸の才能を重んじてのことであり、肉体と精神にまで及ぶような徹底した寵愛ではなかった。彼は、秀吉は、その才を、その体を心を、あるとするならばその魂までも、すべてを愛されている。

遠方の山城に詰める秀吉よりも多くの時間を信長の傍らで過ごす蘭丸にとって、離れていても変わることなく愛でられている彼の存在は羨望の対象だった。妬ましいというのではなく、自分も同じように主に愛されてみたいと思う純粋故にそう思う。だが、同時に恐ろしいとも感じるのだ。拒絶も逃走も許さない主の苛烈は、単に愛されたいと願う自分のような人間には受け止めることなど到底できない代物だと分かっている。あくまでも遠くから眺め見て羨むだけに控えておくことが、己自身のためでもあるということも蘭丸は既に理解していた。まして、主が秀吉と同等に他の人間を愛するとは考えられない。

蘭丸はふうと小さく息をついて首を左右に軽く振った。羨ましいなどと感じてしまう反面、秀吉の身を案じる危惧も絶えずつきまとってもいる。何せ体格にしろ体力にしろ、性分や身分に至るまで正反対な主従である。信長が威風堂々たる長身であるのと反対に、秀吉は蘭丸と同等か些少低い背丈でしかも痩せている。武家と農民では筋肉のつき方までもが根本的に異なっているのだ。刀を握る腕と鍬を振り上げる腕では、前者がより強靭に鍛え抜かれており腕力の差異とて著しい。二人の差を考慮に入れると、主を受け入れる秀吉にとって伽は重労働に違いなかった。ああも主が熱心だと、彼がいつか過労で倒れてしまうのではないかと他人事ながら心配になってくる。



が、それとこれとは話が別である。



顔を上げて廊下の果てを一瞥すると、当の秀吉が歩いてくるのが見えた。途端に蘭丸は静かな面を微かに険しくさせ眉を吊り上げる。
秀吉を連れこむと決まっていつまでも寝所から起きてこない主の無体を、彼にもたしなめてもらわなければならないというのに、今日も今日とて繰り返された朝は腹に据え兼ねるものがある。信長が起きてこなければ、蘭丸他、小姓、侍従達の仕事とてはかどらない。主の為様に対して、秀吉からも諌言を献ずるようにと再三言い聞かせているにもかかわらず、改善の見込みが全く見られないではないか。勿論、彼が悪い訳ではないと分かっているのだが、主にそれとなく苦言を呈しても口では、分かったと言いながら結局はこの様である。最早秀吉が直接諌めるか、伽を拒むかのいずれかでなければ、信長が朝方の戯れを自重することはないだろう。
何度となく秀吉に聞かせている苦情を、性懲りもなく今日もまた切々と繰り返す自分の姿を想像し、蘭丸は口を僅かに尖らせた。また手厳しく注意せねばと密かに決意して、自身に会釈してから湯殿に入る秀吉を横目で睨む。

分かってはいるのだ。
彼が悪いのではなく諸悪の根源は信長だと。

分かってはいるのだが、直接本人に注意できるのであれば苦労はしないのである。秀吉様には申し訳ありませんが、と心中で渋々自分を納得させ蘭丸は眉間に薄く皺を刻んだ。
失礼致しますと断り自身も湯殿に入ると、小袖の帯を解いていた秀吉の横を中腰で通り過ぎ、浴槽に乗せた板を手早く取り払う。蘭丸は板を壁に立てかけてから、湯殿の入り口近くまで引き返して膝をつき、帯を解く手を止めた秀吉の背を睨むに等しい強さで見つめた。
「お話がございます故、湯浴み後、お時間頂戴できますでしょうか」
片膝をついて請うと小さい背中がぎくりと軽く跳ねる。蘭丸の言わんとしている所は既に察しがついているらしい。
「そりゃあ、構いやせんが……話とは?」
振り向いて尋ね返した秀吉の双眸に、苦情は勘弁して欲しいという嘆願がありありと見て取れた。しかし、素知らぬふりを決めこんで質問を返す惚けた態度にむっとした蘭丸は
「後程」
と素っ気なく応じるだけに止める。秀吉は珍しく眉を八の字にひそめて薄い肩を落とした。
「怒っておられます……かな?」
ただでさえ小柄な体を更に萎縮させ、彼は蘭丸に背を向けて問いながら再び帯を解き始めた。今度は自分が素知らぬふりをすることに決めて、すました顔で
「いいえ」
またも簡潔に返した。
「然様で……」
「はい」
蘭丸の返事を最後に湯殿は沈黙に包まれた。


秀吉に対して主のことで苦情を訴えるのは今日に始まったことではないので、同じことを繰り返し叱らせることについても多少腹は立っている。蘭丸は、毎回ご注意申し上げておりますのにっと不満げに胸中でこぼしたものの、悄然と項垂れる小さな背中に少しだけ笑ってしまったのだった。