疲れた。

心底から吐き出した一言を、それでも胸中でこぼして溜息をついた秀吉は、気怠い体躯から益々気力が萎えてゆくのを感じて再び大きく息を吐く。

城下にある自身の長屋まではまだ遠く、賑わう目抜き通りを覚束ない足取りで歩きながら、駕籠でも手配してもらえばよかったと後悔しつつも即座にそれを否定した。疲労のため体は重く徒歩は辛い。駕籠で行けば、確かに長屋には早く到着するであろうし、自らの足で歩いてゆく億劫さを味わうこともないはずだ。だが、楽することを回避してでも、今は振り落としてゆかねばならない高揚が自身の胸にある。消耗した体躯に襲いかかる不快な重さで相殺されてくれればいいと思ったのに、中々には消えてくれない歓喜と恍惚を今は恨めしく思う。

自身の口元を手の甲で軽く押さえて、秀吉は目の下に集まる熱を必死に追いやった。
自分が浮かれていることを誰にも知られたくない。その理由を問われれば答えられないからだ。答えられたとしても、秀吉が何故浮ついた気分でいるのかを理解することは難しいはずだ。

何しろ、これは、この喜悦は、主と自分だけが共有できる代物で、説明した所で他者が理解できる程短絡的な感情ではない。

困ったお人じゃと心中で苦く呟きながらも顔が熱くなる。こんなことならば、蘭丸にもっと手厳しく説教を食らっておけばよかったなどと自棄になって、少し苦笑してしまった。青年の長たらしい説教で精神まで疲弊していれば、まだしも押さえられた高揚だったのに、帰り際、主と会ってしまった時点で駄目だと思った。押さえられなくなると。

秀吉は頬に迫り上がる紅潮を追い払うように、いかんいかんと首を振るってなるべく疲れたと思いながら歩いた。滑稽なことをしていると自分でも思うのだが、他にどうしようもないのである。
ふと、雑踏の最中に頭一つ分は突出している長身の男に気づいて秀吉は足を止めた。男は市女らしき女の肩を抱き、白い項を目線で無遠慮に乱して何事かを囁いている。しかし、女はすげなく身を引いて男の頬に強烈な平手を見舞い歩き去っていった。ばちんと派手な音が響いた瞬間、秀吉も身を引きつらせ、あいたたと我が事のように痛みを錯覚して顔を歪める。頬を押さえ前屈した男の様は、実際に自身とて他人事ではない。獣皮で作られた独特の陣羽織の背に、三本足の烏を染め抜いたその男にはおかげで深く同情してしまった。同情したのは何も自身と似た境遇に陥っているというだけが理由ではない。

頬をさする男の背中に溜息を交えて
「孫市」
と呼びかける。すると、男は巨躯に似合わぬ俊敏さで身を反転し、おおっと笑顔を見せた。頬にはくっきりと手型が残っている。
大股で歩み寄ってきて、おうと片手を上げた男に秀吉も弱く笑い片手を上げて応じる。上げた手を握って拳を作ると男は同じく握った拳を軽くぶつけてきた。男の気安さに多少救われた気がして、秀吉は相手の腕に捕まり体重を預ける。
「なんだぁ? えらくぐったりしてんな、お前」
からかうように言って男は軽く笑った。
男の名前は雑賀孫市といい、紀州雑賀庄の領主でもある。雑賀はどの国にも属さず独自の体制を保った小国家に等しく、また、銃砲の技術に長じた特殊な一族で、金銭などの報酬を得て戦に参加する、いわば傭兵軍団でもある。雑賀の領主は同時に傭兵達の頭領でもあるので、目前で眉をしかめて頬をさするこの男はまぎれもなく、日本屈指の銃の使い手達が揃う雑賀を束ねる人間だ。
そして、また、秀吉の旧友でもあった。
「そらもう、疲れきっとるで……肩貸してくれや」
孫市よぉと友の名を呼んで、広々とした背中を叩くと
「俺の肩は男に貸してやるためにある訳じゃないんだがな」
などと勿体をつけて首をすくめてみせたが、孫市は結局、秀吉の肩がある位置にまで律義に屈んだ。すまんと大きく溜息をついて男の肩に腕をかける。男が半分近く体を支えてくれるおかげで足が軽く、歩みも進んだ。多少歩きにくくはあったが、体重を感じずに済むためひどく楽だった。
友人を前にすると辛うじて普段の自身を取り戻すことができ、秀吉は声なく、助かったと呟いた。だが、やはり目の下はまだ少しだけ熱い。
「今日はどうした? 悪いが酒も女も付き合えんわ」
ふるりと小さく首を振ってから、極力平常と変わりなく男に笑顔を向けて問う。孫市は何の前触れもなしに現れて二、三日秀吉の長屋に居座ったかと思うと、ふらりと姿を消してしまう、雲のように掴みどころのない男だった。姿を見せるにしても理由があるのかないのか、問うてみるまで分からないのがこの友人の悪い癖でもある。
「この間貸した金の取り立てに来たんだよ」
何言ってんだと言葉を続けて眉を吊り上げた男に、秀吉も渋面になった。
「けちな奴じゃなぁ……! 明日にしろや、明日にぃっ」
「明日じゃ遅い。分かってて言ってんだろ、こいつっ」
ねねちゃんから情報入手済みだってんだと語尾を続けて、眉間に皺を刻み眦を吊り上げた親友の顔を横目で睨む。どうせ、酒代に消えるんじゃろうがと言い返してやりたい気持ちを飲みこんで秀吉は溜息をついた。今晩には砦に帰着せねばならないので、男の言う通り明日になれば自分は城下から姿を消しているだろう。
秀吉は口内で舌打ちして立ち止まると男の肩から手を離す。孫市は、無利子で貸してやった俺に感謝しろよなと、仕様もないといった風情で言い募る。男の態度を苦々しく睨みつけたが
「ほれ。持ってけ」
渋々懐から財布を取り出して数枚の永楽銭を投げ渡した。
「毎度」
飛び散った永楽銭を片手で器用に受け止め、すべて掌中に収めてから孫市は、酒、酒と口内で嬉しそうに呟いた。やっぱり酒かいと胸中で思わず喚いたが、財布を懐にしまいこんで口をへの字に曲げる。
そんな秀吉に、はたと気づいて目線を合わせた男は訝しげに眉をしかめた。不精髭が散る顎に手をやり、繁々と自分を眺め見る友人の平素とは違った態度に、秀吉の方こそ胡乱に思って顔をしかめる。
「なあ、秀吉」
おもむろに問われて片眉を跳ね上げた。
「おう?」
首を傾げて応じると、孫市が、良いことでもあったか? と意外な質問を投げかけてきた。うんにゃ、別にと素直にかぶりを振ってみせた自分の怪訝な面持ちを意に介するふうもなく、男は、へーと軽く返事をして双眼を眇めた。
「疲れてる割りにゃ、お前……」
自分を一瞥し、人差し指で顎を掻いて途中で言葉を切った孫市に焦れったくなり、ああ? と苛立ったように声を上げて無言のうちに、早く言えと促す。急かす秀吉に孫市は広い肩を竦めて、はいはいと面倒そうな態度で返した。
「すげぇご機嫌、って感じだぜ」

言われた瞬間、友人の言葉に秀吉は目を剥いた。

予想だにしていなかった男の一言で、なんとか押さえていた感情が膨張してゆくのを自分でも止められなかった。面をこの上なくしかめてみても抑止することはかなわず、秀吉は無駄な抗いと知りつつも奥歯を強く噛み締める。身内から勢いよく広がった温度はみるみるうちに肌を赤く染め、汗が滲む程全身が熱くなった。特に首から上がのぼせたみたく熱を訴えている。隠し通せていると思いこんでいた事を指摘された羞恥がそこに加わり、耳朶にまで余波が広がった。

秀吉の様子に驚いたのか孫市が、おいおいと慌てて
「熱でもあんのか?」
などと検討違いなことを尋ねてきた。しかし、返答する余裕もなくしていた秀吉は、ただ首を振る。言葉を忘れたように首を振り、男を残して速足に歩きだした。

おーいと後ろから友の声が追いすがってきたが、ともかく立ち止まりたくなくて顧みることはしなかった。


歯止めなどきくはずがない。
この喜びは、この楽しさは、この高ぶりは。
主と会えば必ずもたらされる、病のごとく執拗で厄介な、堪えきれない高揚感。
質が悪いと思いながらも信長の揶揄に晒されて、この上なく愛されていると知ること程、自分を有頂天にさせることは他にない。


知っている。既に分かっている。
早起きの方法など、本当はないなんてこと。


秀吉はいたたまれなくなって両手で自身の両頬を打った。
勿論、熱は引かない。そればかりか、更に熱くなってゆく気さえして、あーったく、嫌になるわー! と心中で喚き散らした。



かなわない。



朝に思ったことを今一度思い、秀吉は熱い面を極度に歪めて、せめてもの照れ隠しをする。そして、頭から離れない主の意地悪く笑う顔に、お恨み申し上げますぞ、本当にぃっ! と泣き叫び、親指の背で自身の唇に触れた。まだそこに主の温もりが居残っているような気がして、秀吉は紅潮する面と同じ温度の熱い溜息をつく。





ああ、まったく質が悪い。
彼の人が忘れられない悪戯などするから、いつもの自分でいられなくなる。





「困ったお人じゃ……」
小さく小さくこぼして、どんどん熱の上がる頬に堪らず片手で顔を覆った。











困る困ると言いながら、そういう所も好きだなんて思った自分が一番恥ずかしいじゃないか。