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愉快、と声なく呟き、喉元で低く笑って鋭い双眼を楽しげに細める。
片手でもてあそんでいた扇で自身の肩を軽く打ち、織田信長は立てた片膝に肘を預けた。縁側から臨む書院造りの庭園は、平常の慌ただしさから隔絶された静寂を保ち、熟慮するにはうってつけの空間でもある。だが、今現在、縁側に腰を下ろして庭を眺めているのは別段何らかの思慮があってのことではなかった。
城の外塀に沿って植えられた樹木が漆喰の壁を覆い、目に見える無機的な色彩は庭に配された石組みの他には何もない。青空を映して青く染まる池の水面に、時折そよぐ微風がうっすらと波を立たせ、飛んでゆく鳥の影を奇妙な形に歪ませる。人払いした部屋の沈黙が元より庭園に佇む静謐と重なり合い、微かに苛立ちを訴えていた胸奥を快く宥めた。静けさをはらんだ空気を肺に深く吸いこむ程に、焦げつく腹の底から煩わしさが消えてゆく。
信長は不意に面から笑みを消して、扇を小さく打ち鳴らす。
今朝方、寝所で起きたちょっとした騒動は七割方、自身が起因しているということは信長も認めていた。だが、残りの三割については彼が、秀吉が悪い。一言断って起きればいいものを、妙な気を回してこそ泥みたく抜け出そうとする態度が気に入らないのだ。大体、自分が彼よりも遅くに目を覚ますとでも思っているのだろうか。
たわけがと心中で呆れの呟きを漏らして、再び扇を打ち鳴らした信長は、だがと声なく二の句を継ぐ。
そういった秀吉の挙動を逐一揶揄したくなることは自身、抑止のしようがなかった。困らせたいというより困った顔が見たいという子供のごとき嗜虐心は、一度刺激されると手のつけようもなく勝手気ままに自分を行動させる。
平素から彼を罵る者にさえ笑顔を絶やさずに接する秀吉は、無論、信長の前でも滅多なことでは明朗快活な笑みを崩すことはない。しかし、自分は彼が誰にでも見せる顔が見たい訳ではなかった。例えば困惑、例えば驚愕、例えば恍惚、秀吉が誰にも見せないような、かつ、自分だけが目にすることのできる表情を引き出せるだけ引き出したいという、なんとも幼稚で単純な欲求が、彼の些細な仕草や言葉で暴走してしまう。
だから、三割三割で同等にお互いが悪いとしても、残り四割の原因が自分にあるとするのは、歯止めのきかない欲気を野放しにしている自覚があるせいだった。
とはいっても、秀吉に悪いなどとはかけらも思ってはいない。自分がそそられることがないよう寝所を抜け出す方法を、いつまでたっても発見しないのは明らかに彼の研究不足としか言いようがないのだ。信長に発見させる気がないとしても。
それにしても、だ。
いつにもまして、愉快極まりなかった今朝の出来事を思い出すと自然笑いがこみ上げる。自身がよく用いる小姓の一人に森蘭丸という青年がいるのだが、彼が寝所にやってきた時の秀吉の慌てようといったらなかった。
蘭丸が障子戸を開ける直前、布団を頭から被って全身を覆い隠してしまった所まではよかった。しかし、信長が気がつかないとでも考えたのか、青年と言葉を交わしてる最中に、小袖を手に入れようと秀吉が布団から手を伸ばしたのを目撃してしまい、咄嗟に彼の小袖を踏みつけていた。
行儀のよい蘭丸が思わず吹き出してしまうのも無理のない話だった。あの時の秀吉の姿は笑うなという方が不可能だ。今にも大声で笑い出しそうな程に肩と声を震わせながらも、丁重に断って寝所を後にした蘭丸の背を目だけで見送った信長は、足元でもがいていた布の塊に容赦なく拳を落とした。うっという呻き声とともに、寝台の上で更に激しく暴れ出したその塊を押さえつけて、このたわけがとわざと怒声に近しい低音で叱咤すると、布の中から、申し訳ないです……と消え入りそうな小声で彼が応じた。喉の奥に苦笑を押しこめて、布団を剥ぎ取り、後頭部を両手でさすっていた秀吉の鼻先に屈んで小袖をぶら下げると、はっとした顔をして夜着に飛びつこうとした彼の目の前からそれを取り上げてやった。痩せた裸身は勢いのまま信長の腕に自ら飛びこんできたが、しつこく小袖に手を伸ばす強情さには少し呆れてしまった。もう本当にご勘弁下さりませえ〜! ととうとう泣き言を口にした彼に、違うと厳しく言い放った。頼む言葉が違う、そう言ったのだ。
何卒、どうか、後生ですからなどと、次々と巧みに言葉を変えて言い募ってくる彼の懇願を、まだ違うなと冷淡にはねつけているうちに、蘭丸が来たことによって一度は抑制されたはずの欲求がまた疼き出してしまった。考え得る懇願の言葉をすべて出し尽くして唇を噛んだ秀吉の渋面に、万策尽きたかと厭味たらしく呟くと、表情にこそ表さなかったが彼は悔しそうな色合いを双眸に浮かべた。
彼のその目を見た時に思った。つくづく分かっていないと。
軍議や評定、雑談においてさえ、信長の婉曲な言い回しや、あまりに端的な物言いは難解な表現と取られてしまい、聞いて即座に理解し得る者はいないといっても過言ではなかった。秀吉だけなのだ。彼だけが自分の思考を鏡に写したかのごとく的確に汲み取り、咀嚼することができる。無駄に説明を強いられることもなく、滑らかに自分の舌が言葉を吐く時は、彼を相手にしている場合だけだった。だが、その秀吉にすら、自分のこの下らない衝動を見抜くことはできない。
淡い色の虹彩に浮かび上がる恨めしげな光に、困らせてやりたいという欲求がふつふつと沸き上がってきて止められない。恐らく、哀願されても憤慨されても、同じ欲気を起こしていただろう。質の悪い自分の揶揄が何によって誘発されるのか、少しも分かっていない彼の、こんなことにばかり無知な様が一層愛おしくて自身苦笑を禁じ得なかった。
口だけか。
閉口したまま困惑とも狼狽ともつかない表情で自分を見上げる秀吉にそう言った。口だけで、言葉で頼むだけなのか、と。
彼は信長の言葉を聞いてすぐさま顔色を変えた。意味を悟ったらしく、信長の握っていた小袖を一瞥し、殿……と些少咎めるみたく漏らして眉をひそめた。見る間に目の下が紅潮してゆくのを眼下に眺めて口角を吊り上げる。
愉快だ。たまらなく。
声なく喉の奥で笑って胸の内で呟いた。
宥める優しさで彼の細い背中を撫で上げると、薄い双肩が僅かに反応した。てのひらに心地よく馴染む肌の感触と温度が不意に心奥をちくりと刺した。彼の痩躯で己の手が触れていない箇所があるとすれば、それは心だけだ。どうあっても、そこに指や唇を這わせることはできず、凄まじいもどかしさに焼けつく激情で頭に血が上る。何故触れられないのか、何故確かめられないのか、形のないものを欲することは愚かしいと痛切に了知していながら、理性では御しきれない願望が割り切ることすら許してはくれない。
盲目の身で光を見ようとすることと同じだ。まなこを開いてみても闇が広がるばかりの瞳に、光がきらめくことを待ち望んでいる。決して見えないと頭のどこかで分かっていて、見たいと望み、見えると信じる矛盾した想いと。
広いとは言えない肩と肉の薄い背中が萎縮する程、背筋に沿って綺麗な窪みが生じる彼の痩躯を柔らかく両腕に抱く。急かした訳ではなかった。しかし、彼は頭を持ち上げて些少背伸びすると、お恨み申し上げますぞ、そう小声で言い放ってから自分に口づけを見舞った。触れてすぐに離れようとした唇を追いかけて、二度重ね合わせた。耳の裏側から顎へと続く輪郭を指先でなぞり、脱力して成すがままに扱われる体に短く笑って、閉じた瞼に口唇を落とした。
まあ、よかろう。
溜息交じりに言って彼から離れたのは、自身が危ないと感じたせいもあった。ふざけることは嫌いではないが、それも過ぎれば種火になる。か細い灯火が炎に変わる前に手を引くことも必要だ。特に自分みたく、感情に曖昧さを持たない性分であるのならば尚のこと。
秀吉に小袖を投げ渡してやると、返してやった途端、彼はようやく手にした衣類に慌てて袖を通した。寝所を出る寸前、信長は密かに隠し持っていた帯を、彼がいる位置から最も離れた部屋の隅に投擲してやった。案の定、あーっ! という秀吉の悲痛な叫びが背後から聞こえ、はははと声を上げて笑った時には完全に満足していた。
思い出しても腹が引きつり喉が小刻みに震える。彼とは頻繁に顔を合わせる訳ではないので、たまに会うと自分の衝動はどうにも加減が利かなくなってしまう。足りなかったものを手にしたという満足感は確実に感じていた。だが、充足して落ち着く心身とは裏腹に、心臓の奥底でよどむ不満があることは自分でも分かっていた。彼に対する執着は単に気に入りの玩具をもてあそぶ類いのものとは訳が違う。敢えて言うのなら、唯一の宝を愛でるかけがえのなさに等しい執着だった。
独占欲や偏愛といった執着を醜い感情だと思ったことはない。相手を尊重して自己を抑止し、温厚に情愛を育んで、ぬるま湯に浸かったような半端な幸福で満足したと納得する、自分にとってはそれこそが醜悪な自己満足でしかなかった。
心の底から失いたくないと願うのなら、なりふりなど構っていられるはずがない。体面も自尊も投げうって、これが自分だと、こういう自分を受け入れてくれと訴えることが愛でないのならば、自分の胸臆で逆巻き脈打つ炎は一体なんだというのだろう。
醜悪であるというなら、それでもいい。純粋であることも美麗であることも望んでなどいなかった。
誰にもどこにも、渡したくない行かせない。手を離して後悔するぐらいなら、最初から己と彼の腕に枷をはめて逃れることができないよう捕らえておけばいい。泥沼のように彼を飲みこんで深く深く沈めてゆく。誰の手も届かない場所へ、どこにも逃れることのできない場所へ、奪われないように失わないように、できることはなんでもする愚かしさの、どうしようもなく激しく、やるせない程に切実な、だからこその愛ではないのか。
扇で首の裏をぱしりと打ちつけ、信長は眉宇を濁す。
これだから手に負えない。
特別多くを望まずとも、抱えている熱情が深く濃く熱い程に自然と欲深くなってゆく。彼がいっそ武将ではなく小姓であったならば、一時も手元から離さずに済んだものを、と自分らしくもなく自棄な考えに舌打ちした。分かりきっている。実際そうなったとしても、自分は秀吉の才能に物惜しみしただろう。相応しくない場所に卓抜した能力を無意味に配しておくことなど自分には許せない。それが愛した者の才能であるのならば尚更腐らせるよりも磨き上げることを望む。そして、研磨されゆく才覚に比例して、自分は更なる強欲さで彼を愛するだろう。
手に負えない。
もう一度、胸中で苦く吐き捨てて信長は吐息した。面倒な感情だと言わざるを得ない。不治の病のように、手のつけられない厄介な。
再度深く息を吐いて扇を打ち鳴らした信長は、近づいてくる足音に気づき顔を傾ける。誰の足音なのかは分かっていた。帰り際、この部屋に立ち寄るようにと言伝してある。億劫げに板を踏み鳴らす足音は他でもない、秀吉のものだろう。
暫時、庭を眺めながら彼を待った。じきに足音は近くなり、げんなりとした面持ちで縁側を歩いてくる秀吉の姿に信長は、くっと喉で笑う。
大方、蘭丸に説教を食らったのだろう。帰り際に顔を合わせると大抵彼は、頭痛でも抱えているように苦い顔をしている。それが寝不足や疲労のためではなく、蘭丸の執拗な苦情と叱責にあるということは想像にやすい。青年は信長にも数回の苦言を献じたが、効果がないと早々に悟り矛先を秀吉へ向けたようだった。蘭丸の話を聞き終えた後の秀吉の苦々しい面構えは、平素の笑顔と比較してしまうせいもあるだろうが、物珍しくて笑いが漏れる。
ご多分に漏れず、今日も青年にたっぷり絞られたらしい彼の無残な様子に信長は喉を蠢かす。
「秀吉」
低く呼ぶと目が覚めたように彼が顔を上げた。秀吉はくつろぐ自分を見つけて、即座に表情を変え駆け寄ってくる。自分より少し離れた場所に膝をついた彼の人懐っこい笑顔には、先程までの疲れ切った表情は微塵も残っていなかった。
「本日はこれにてお暇致したく」
両手をつき、恭しくこうべを垂れる彼の挨拶に信長は無言で頷く。
砦から敵城を見張り、襲撃してくる敵兵を追い払うという彼の業務上、これ以上の日数を留まることはできないので引き留める理由もなかった。滞在日数が少ないといっても、隙を見ては登城し、城下で忙しく情報を集める彼の動きの軽さを信長は知らない訳ではない。砦に籠もり身動きせずにいれば、確かにさほど懸念はないものの他国の動きに疎くなってしまう。いち早く主の動向に呼応できるよう、敏感に五感を研ぎ澄ましている抜け目のなさも秀吉らしく、また、そういった念入りな姿勢を買ってもいるので、呆れつつも頼もしいと思う。
次に登城する時期はこちらから提示してやろうと思い至って信長は、ときにと鷹揚に言葉を吐いた。
「近く祝宴を開く」
「祝宴にござりまするか?」
顔を上げて小首を傾げた秀吉のきょとんとした顔に口角を歪めて、信長は扇を鳴らした。
「頃合いよ」
主語すら省き、それだけ答えても彼は、ああと納得して目を輝かせていた。
「奇妙丸様の元服にございますな」
うむと軽く応じて、心中あまりの察しの良さに苦笑した。
信長の長男、奇妙丸は今年で十五歳になる。祝い事で尚且つ時期的にちょうどよいこととなると、奇妙丸の元服以外には思い当たる節がない。とはいえ、頃合いという自分の一言だけで、結論にたどり着くことができるのは彼ならではであろう。
「それは祝着至極」
弾んだ声音とともに勢いよく彼が叩頭した刹那、板が派手な音を立てた。どうやら額をぶつけたらしく、ううっと秀吉が呻いて伏したまま肩を震わせている。それを鼻で笑って、中々顔を上げない彼に
「うぬも来い」
と命じた。間髪入れずに、はっと短く応じた秀吉が、赤くなった額を片手で押さえて顔を上げる。
「無論にござりますれば」
そう言ってにこりと微笑んだ相好には快活さよりも、どこか眠たげな覚束なさが目立った。実際、眠いのだろう。挙止動作の端々にどことなくぼんやりとした雰囲気が漂っている。信長はふっと吐く息より密かに微苦笑を漏らす。扇を殊に大きく打ち鳴らしてやると、音に反応して彼の痩躯が些に揺れた。瞬時に鳶色の双眸が平常の朗らかさを取り戻す。
彼には分からないよう、小さく苦笑いして信長は
「酔うた猿はいかに踊るか」
楽しもうぞと語尾を続けた。自分の独白じみた台詞に彼が表情を固くさせた。自分の言った「猿」が秀吉のことであると察したのだろう。
彼は酒に弱いのですぐに酔いつぶれてしまう。以前、酒宴を開いた際、信長に大杯を勧められて、それを飲み干した彼は前後不覚に陥るまで泥酔してしまい、倒れて小姓達に世話をしてもらったことがある。踊るというのは、その泥酔した様を揶揄してのことだった。また、彼が酒に酔うと褥の最中で普段以上の可愛げを見せることをも意図していた。
秀吉がどちらの意味においても「踊る」ことを自身気に病んでいるのは知っている。だからこそ、わざわざ口したのだ。予想通り、辛うじて笑みを崩さなかったものの、彼は眦に涙をためて目だけで信長を非難した。
「恐れながら、猿は酔う前に退散致しましょう」
秀吉が負けじと応じた。至極丁寧な言い回しだが、語調には微かな険が潜んでいるのを聞き逃さない。
「縄で繋ぎおけば、それもできまい」
すかさず底意地悪く返すと、彼が口を噤んで笑顔を硬直させる。縄で繋ぐなどというのは勿論冗談だが、信長ならやり兼ねないと彼が思っていることは難なく読み取れた。
あまりにも抵抗するようであれば、縄を用いることも辞さないのは確かだが。
「野猿を手飼いになさるので?」
あ、ああっとわざとしらく目を逸らして手を打った秀吉の笑いは引きつっていた。惚けた質問をすると心中で呆れてはいたが、的を得た受け答えではあった。自分がつけた彼の渾名は猿だ。容姿が似ているというよりは、すばしっこさが似ているという理由でつけたものでもある。そして、秀吉という猿は今、自分という飼い主の手に繋がれているも同然の身だ。改めて縄で捕縛するとなると必然的に飼い主を持たない野良の猿しか考えられない。即ち、自分とは違う猿であろうと彼は問うているのだ。
小賢しいと内心苦くこぼしながらも、彼の機転を無下にするかのごとく
「最早飼うておるわ」
にべもなく、そう答えた。
「飼い主の躾が足らぬと見えて、小生意気に手向かい致す猿ぞ」
更に言を継ぐと秀吉が小さい体を一層竦ませた。
「躾は行き届いておるかと……」
「いかんに」
どんどん小さくなってゆく彼の声に口端を吊り上げ信長は、たんまり厭味をこめて短く尋ねる。
「猿とて飼い主殿を敬愛しておりましょうが……主が無体なされること、気に病んでいるのではないかと思うんすけど」
あくまで、わしの想像ですぞっと両手と首を振って言い訳する秀吉に、ほう? と返し信長は、ぱちんと扇を鳴らした。
「無体とは」
分かっていながら、またも問う。
「ですから、その……」
「逃げる程の理由にはならぬ、な」
ふんと鼻で笑い飛ばして言葉を詰まらせた彼に畳みかける。秀吉はがっくりと双肩を落として、ついに、そうっすね……と頷いた。しかし、ですがと顔を上げて
「猿にも羞恥心はありますぞ」
と小声で訴えてくる彼の目の下は微かに赤く染まっていた。秀吉がこうも懸命に言い立ててくることは珍しい。
が、検討はついていた。
信長は思わず、くくくと喉元で苦笑する。
「絞られたか」
蘭丸に、とは敢えて口に出さなかった。彼はしかし、理解して再びげんなりとした面持ちになった。
「それはもうたっぷりと……」
「懲りぬ奴」
蘭丸が、である。毎回同じ苦情を秀吉に言い募る青年の律義さには苦笑を禁じ得ない。秀吉もまた、参りますなぁなどと弱り切った調子で言って頭を掻いたが顔は笑っていた。
ならば、そう不意に言を継いだ自分を彼はじっと見つめる。
「知りたいか」
秀吉はすぐに、朝方の褥でどうすれば自分から逃れられるか知りたいか、と信長が問うているのが分かったらしく、目を丸くして閉口していた。自分の口からもたらされるには意外な提案だったはずだ。しばらくは驚いた面持ちを維持していた彼だったが
「よろしければ、お教え頂きたく」
信長の予測した通り、怖ず怖ずと頭を下げて知りたいという返答でもって応じる。本気でそう思っているのか、と尋ねたくなる意地の悪さをどうにか押さえて
「なれば、近う」
扇でさし招いてにっと笑う。秀吉が命じられるまま膝を僅かに進めた。
「足りぬ」
寄れと更に促しても、遠慮がちに膝を進める彼に焦れて自身から寄る。少し驚いて目を見開いた彼の顔が、吐息の交わる距離にあった。神妙な顔つきで自分の言葉を待つ秀吉に何かしら悪戯を仕掛けたくなる欲求が急激に迫り上がってくるのを止めようもなく、信長はにやっと口端を吊り上げて、彼の項を鷲掴みにした後
「諦めよ」
端的に言い放って、非難がましく開きかけた口唇を有無いわさず奪い取る。身を引こうとした痩身にそれを許さず、腕を掴んで力任せに引き寄せると、軽い体はたやすく自身の胸に収まった。
「……殿っ」
顎を反らせて唇を避けた彼が狼狽しきって喚く。
「抗うか」
後方に逃れようとする彼を睥睨して眉根を寄せると、秀吉がぶるぶると頭を左右に振った。
「そりゃ、こんな……っ」
「お蘭の小言が移ったか。口やかましく成り果ておって」
叱咤するに近しい不機嫌な声音で言い放ち、信長は腕の中で暴れる秀吉の耳をつまんで引っ張った。いたぁっと声を上げたうるさい唇を自身のそれで塞いで心中で笑う。
馬鹿め。
愛しげに彼を罵って、堪え性のない自分に対しても、阿呆だと呟く。
分かっているだろうに、分かろうとしない。
惚けて首を横に振る、その頑是なさが自分を無闇に刺激するのだと。
ずる賢く逃れる術を身につけたのなら手を離してやるものを、言われずとも諦めている癖に中途半端な抗いで妥協するから、捕まえておきたくなる。
自分から逃げるための早起きなど、させてやるものか。
どうしても逃げたいのなら、自分を蹴ってでも出て行くがいい。
果たして彼が、そこまでして逃げるのかと言えば。
信長はようやくおとなしくなった痩身に口角を歪め、扇を放ったその手に彼の手首を掴み取った。
足掻きたければ足掻けばいい。
どうせ我が手の中では、どう足掻こうと。
「無力」
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