MEDICINE



















首筋を撫でる微風には冷たさよりも温みが増し、乾ききった空気に微かな潤いが入り交じる。
寒さも暑さも曖昧な温度に溶ける大気に日差しが加わると、恍然と緩む甘い心地良さに意識の端から睡魔がゆるりと忍び寄ってくるようだった。結い上げた髪を乱す荒々しい風が時折吹きつけてきたが、砂を含んだ強風の中にほんのりと漂う花の香りが胸に快い余韻を与える。先日までは肌を刺す程冷たかった風も今は涼しげにそよいで、少し動けば汗の滲む首筋を柔らかく宥めた。

厳寒から解放されつつある草木は人々と同様、麗しく生命の限りを謳歌し、日に日に水となって消えてゆく雪の白さに去りゆく冬を実感する。依然寒さが居残るとはいえ、生温い大気は既に春を告げていた。肌寒さを感じるが震える程ではなく、汗ばむ暑さもまだ微かに冷たさを残す風に癒される。春でもあり冬でもあり、春でもなく冬でもない、今は境目の曖昧な季節でもあった。季節の境目に必ず訪れる、明確な区切りのない覚束なさはひどく自分を苛立たせる。

安土城天守閣の望楼から城下を臨み、織田信長は色合いのない端麗な面に僅かな険しさを滲ませた。

信長が擁する主力軍団の数々は遠征のため各地で奮戦していることだろう。余程の用向きがない限りは各々の領地に帰ってくることは少なく、時折帰ってきてもすぐさま戦陣にとって返すことが多い。戦況報告は大概書面で送られてくるが、危機的状況でない限りは軍団長が少数の護衛とともに安土へやってくることもあるので、安土城から領地が遠くにある武将には、戻る手間と時間を考慮して城下に別邸として屋敷を与えていた。彼らはその屋敷で鎧から正装に着替えて、帰着の挨拶と戦況報告のため安土城へ登城する。

高欄に上体をもたせかけ、城下に配された装束屋敷の数々に視線を映して、片手に握った扇を打ち鳴らした信長は数ある屋敷を順に眺めていった。

自身の長男、織田信忠、柴田勝家、徳川家康、そして、羽柴秀吉。

秀吉の屋敷に目を留め、信長は眉間に微かな皺を刻む。

寵臣といってもいい。自分が最も用いるだけでなく、最も手塩にかけ現在の身分にまで磨き上げた武将が羽柴秀吉だ。身分だけではない。その名も家紋も、すべて自分が与えたものであり、彼自身、信長に心身を捧げている。若かりし頃から現在に至るまで、それは決して変わることはなく、信長とて彼の能力だけを愛したことはただの一度たりともなかった。
破竹の勢いで周辺諸国を制し、日本という国の王となるべき覇業の成就を眼前に控えた信長は、既に朝廷から右大臣の位を下賜されている。最近では秀吉も自分を殿ではなく上様と呼ぶようになった。彼はまた自分を信長様、とも呼ぶ。主に二人きりで話す時などはそうだ。自分が困らせれば戸惑い気味に、笑わせれば楽しげに、褒めれば嬉しそうに、間断なく変わり移ろう陽気な語調で、信長様と呼ぶ。

過去に一度だけ、涙交じりの声でそう呼ばれたことがあった。褥の最中ではない。捨てられた子供の孤独と悲痛をはらんだ、すがるような声で。側にいて欲しい、彼が本当に言いたかったのは恐らくそんな願いだったに違いない。しかし、言わない。彼には言えない。自分が彼の主であり、彼が自分の家臣である限り。
切ないまでに秀吉はわきまえている。どれ程心を分かち合おうと、どれ程近しい魂を持ち合わせていようと、主従の壁をたやすく越えることはできない。それは精神的な距離感ではなく、目の前にありながら目には見えない壁に遮られるかのごとく、物理的な距離に等しい。

秀吉が昨日から屋敷に帰ってきていることは知っていた。無論、すぐに使いをやり、登城することを求めたが、三度やった使者はいずれも秀吉を連れて来ることはできなかった。そうだと心中で一人ごちて信長は両目を眇める。
この時期、この時節がくると彼は。
「道三を呼べ」
背後に控えていた侍従に振り返ることもなく命じた。短く応答し侍従が去る気配を察して扇を打ち鳴らすと、静かに瞼を閉ざし眉根を寄せる。
彼が登城できない理由を自分は知っていた。知っていても、どうすることもできない。遠く離れて、ただ願うだけしかできることが何もない。苛立つのは季節のせいだけでなく、自分には何もできないという現実を痛い程に実感させられるせいもあった。ひたすらに腹立たしい。自分自身が、自分が何もできずにいることが、無闇に憂慮を募らせるやりきれなさが、何もかもが癪に障る。
彼にばかり目をかければ、他の家臣は嫉み秀吉の陰口を叩くだろう。昔は今以上に注意を払わねばならなかったが、彼の身分が随分と上昇したことで必要以上に気を使うこともなくなった。だが、全く気をつけなくてもよいという訳でもない。
毎年顔を見せてやるぐらいの些細な贔屓さえ自戒したのは、彼がありもしない事柄で他人に貶められることの方が我慢ならなかったからだった。秀吉という人間を真実の意味で理解できるのは自分だけで構わないとは思うが、彼を理解しようともしない輩が囁く嘘を聞かされること程腹の立つことはない。妬みに満ちた悪罵など無意味とも知らず、彼を最もよく理解する自分に、口さがない偽りを吐き散らかす愚かな人間の卑しさは憎んでも憎みきれない。

信長は緩く奥歯を噛み合わせ、苛立たしげな溜息を喉元でかき消した。
今ならば、今年ぐらいならば構わないはずだ。去年も一昨年もその前の年も、用がある時でなければ彼の屋敷に出向いたことはない。たまさか訪問しただけのことを贔屓ととる愚か者も、今は大半が遠方で戦に精励している。今ならと胸中で強く呟き、信長は扇で自身の肩を軽く打った。

程なくして、曲直瀬道三殿、まかりこしましたと侍従に告げられ信長は首だけで背後を顧みる。
曲直瀬道三は名医に師事し最新医学を修めた医者で、諸国を渡り歩き様々な国の大名を診察したばかりでなく、天皇に拝謁、診察をした当代随一の名医と誉れ高い男である。現在は信長の主治医として安土城に常駐しているが、時折薬の配合に必要な材料を仕入れに堺へ足を伸ばすことも度々あった。
先日から信長の命により堺に赴いていた道三が、安土に帰着したのは昨日のことだ。早速仕入れた薬種の調合をさせ、今日には必要な薬が大方揃う予定になっていた。
「お呼びにございまするか」
自身の後方で畳に平伏していた坊主頭が鷹揚に問うて面を上げる。並の僧徒より慎ましやかな品格を漂わせる初老の男が柔和な面を淡く破顔させた。
しばし高欄から秀吉の屋敷を眺めていた信長だったが、溜息とともに巨躯を反転させ道三と対峙した。
「薬はどうだ」
この通りと手元にあった薬籠の蓋を開いて見せた道三は、ご所望の通りに揃えましてございますと語尾を続けた。薬籠の中には小さく折り畳まれた薄手の和紙が並んでおり、一つ一つに「川」「桂」「黄」と異なる文字が記されている。間違いなく自身が揃えるように命じた薬の頭文字があった。信長はそれらを瞥見して、手を軽く振る。道三は一礼してから薬籠を閉じ、信長の不機嫌を悟ったのか、柔らかい笑みを面に止めたまま口を噤んだ。多くの患者を診察した名医だけはあり、人の機微を汲むことに慣れているであろう男の気の利いた沈黙は決して不快なものではなかった。先程から解れることなく眉間に刻まれた皺を些少緩めると、男はゆったりと落ち着いた所作で信長を見る。
「今年も参りましたか」
些少気の毒そうな色を浮かべて、道三が開放された妻戸から外を一瞥した。道三が信長の主治医となってからは、この名医を毎年、とある芝居に協力させている。男は今年もまた同じ芝居を打つことを自分が要求すると既に悟っているらしい。うむと短く答えて信長は扇を鳴らした。
「抜かりないな」
薬だけではなく、毎年そうするように芝居についても、という両方の意味で遺漏はないかを問うた自分に男は深く頭を下げた。
「無論にござります」
自信というよりは、誠意を尽くして協力させてもらいたいという謙虚さを感じさせる温和な声音で応じた道三は、はたと何かに気づいて顔を上げる。
「羽柴殿はなんと?」
肝となる芝居相手の名を口にして男は首を微かに傾げた。
「所用あって登城を見合わせたいと言うてきたわ。妙な気を回しおる」
たわけがと忌ま忌ましげに舌打ちした信長に
「上様にご心配をかけまいとなさっておられるのでしょう」
健気なことにございますなとさりげなく秀吉を擁護する道三に、知れたことをと胸中で鋭く言い捨て、信長は先鋭な双眼を殊更不機嫌そうに眇めた。
「過ぎる」
確かに健気な配慮ではあったが、気遣いが過ぎるのだ。それが信長には気に食わない。
道三は信長の胸襟を知らずか知ってか、何も言わず再び叩頭した。
「手前は羽柴殿の元に参りたいと存じますが」
「うぬが供をせい」
男の言下に間髪いれず言い放つ。道三は少し驚いたように目を見開いたが、すぐさま柔和な表情を取り戻し言葉の意図を察して、無論にと返した。去年までは道三一人を秀吉の元に行かせていたが、今回は自分の供として着いてくるように指示したのだ。例年とは違う命令に男も多少は驚いたらしい。
「用意せねばならぬものがある。しばし待て」
ははと応じてこうべを垂れた道三を残し、信長は大股に望楼を後にした。

曖昧な温度に歪む風が追うように吹きつけ、ささくれ立つ胸奥に微かな痛みをもたらす。それを強引に振り払い、信長は乱暴な足取りで廊下を歩いた。









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おぼろげに視界が霞むのは涙のせいだと分かっていた。

見上げる天井は眼球を覆う塩水の膜で奇妙に歪められ、判然としない脳内を殊更目眩に似た頭痛でさいなんだ。深呼吸をしても、喉で熱く暖まってしまう酸素では満足することができず、希薄に感じられる空気では何度呼吸を繰り返しても、息苦しさを取り除くことはできない。のぼせたみたく熱に浮かされる頭は、体躯が宙空をさまようのに似た浮遊感をもたらして吐き気を助長した。
絶え間なく浮き出る汗が高温に赤く染まる皮膚をしたたり、先刻着替えたばかりの小袖を濡らしてゆくのが自分でも分かる。肌に張りついてくる布の感触が刻一刻と増してゆく不快感に、羽柴秀吉は朦朧とする意識の狭間で小さく呻いた。目覚めると喉は渇ききっており、冷たい水が欲しいと思ったが誰かを呼ぶだけの声を発する気力もない。

秀吉は身じろいで再び唸った。額に乗っている手拭は温まり、全身を襲う高熱と同じ温度に変わっている。余計に気持ちが悪く、脳を直接打ちつけられているような激しい頭痛が更にひどくなってゆく気さえした。
枕元には水を張った盥や冷えた水に満たされた提子(ひさげ)が置いてあるだろうが、身を起こす気力も体力も秀吉にはない。昨夜から突然体調を崩し熱を出したため、今日まで何も食べることができず消耗も激しかった。だが、好物の割粥を出されても今は首を左右に振るだろう。空腹だという感覚は顕著なはずなのに、食欲はまるでなかった。ただ一つ、甘いものが欲しいと虚ろにそれだけ思う。

閉ざされた障子戸から透ける日差しが薄暗い室内を淡く照らし出し、判然とした思考を妨げる熱度の最中でも今が朝か昼時であることは知れた。先程まで傍らに誰かがいたような気配がしたが、よく覚えていない。廊下を慌ただしく駆ける足音が何度となく部屋の前を通り過ぎてゆくのを茫然と聞き、自身が倒れたために屋敷内が騒動になっているのではないかと懸念がよぎる。

血縁者が少ない上、農民から異例の出世を遂げた自身には譜代の武将など存在しない。そのため、主君から長浜の地を拝領した頃から、将来を見据えて譜代武将の育成を視野に入れた若手の登用を積極的に行ってきた。人材の発掘というのは石ころを磨くのと同じで、いかに研磨しても石は石でしかないが、中には翡翠や金剛石に化ける者もいる。現在、自身が手飼いにしている青年達は、いまだ育成の中途段階ではあったが各々優れた才覚を持ち、秀吉に安堵と満足を与えてくれる。幼い頃より手元で育てている者も多く、彼らの大半が自分を父や兄のように慕ってくれてもいた。特に、佐吉、虎之助、市松の三人は自分に対する敬慕の念が他の青年達よりも強く深い。元服し、名を、石田三成、加藤清正、福島正則と改めた今でも尚、彼らの秀吉に対する傾倒ぶりは尋常ではなかった。年々度を増してゆくような錯覚すら覚える程に。

そんな三人の、息子と言っても決して過言ではない青年達が、秀吉が倒れたと知ればどれ程動揺するかは想像にやすい。しかし、彼らの動揺も無理のない話だった。平素からいかに多忙であろうとも健康を害したことのない秀吉が、病床に伏すということは異常事態に近しいと言ってもよい。今頃、彼らがやれ薬だ、やれ医者だと騒ぎ立てているのではないかと気掛かりで仕方がなかった。

秀吉にしてみれば、この時期、自分が熱を出して倒れることは毎年のことでもあったので別段慌てるような事態でもない。確かに不摂生さえしなければ健康を保つことはさほど困難ではないが、秀吉は子供の頃からとかく体調を崩しやすく、よく熱を出したり腹を下していたものだ。それというのも、母親が自分を身ごもった際にきちんとした栄養を摂らず、また、秀吉が生まれてからも食べ物には事欠く日々が続いたためだろう。体の基礎ができあがる子供の時分に、十分な栄養を摂取することができなかった自分の体躯は人よりも小柄で痩せていた。体格にも顕著に表れた未成熟さは内臓に色濃く表れ、成人した今尚、注意していなければ腹を壊したり発熱することがある。中でも、季節の変わり目、特に冬から春へ、寒さがじょじょに温まるこの時節になると、何故か必ず高熱を出して寝込んでしまうのだった。五日もすれば、けろりと治ってしまう程度のものだが、それも毎年となると多忙な身には少々厄介ではあった。

数日前から安土城下にある自身の装束屋敷に主からの使いが来ていることは分かっていた。秀吉は遠方の戦陣にあっても常に身軽に動き回る。隙を見ては機嫌奉伺に安土へ戻ることも多く、主は自分が帰ってくると話を聞きたがってすぐに登城を求めた。帰着の知らせは既に主の元へ届いているだろう。主の使いが来たら、所用あって登城できないと伝えてくれと妻のねねには頼んであったが、秀吉にしては苦しい言い訳だった。

だが、自身の些細な不調で主に心配をかけたくはなかったのだ。自分が毎年熱を出して倒れることを、主が昔から知っていたとしても。
誰かが騒げば騒ぐ程、主君の耳には自分の情けない状態が伝わりやすくなるだろう。危惧しているのは、何よりも主に知られることだった。

ふっと苦しげに眉根を寄せ、秀吉は喘ぐように大きく息を吸いこむ。重い瞼を持ち上げて天井を見つめながら、少しだけ苦笑いを浮かべて固く双眸を閉ざした。


一人で横になっていると必ず思い出すことがある。


病気の時は誰も側になどいてくれない。いつも一人だった。一人で全身をさいなむ苦痛を噛み殺し、熱が引くのをただひたすら待ち続けることしかできなかった子供の頃の自分。

小さい頃、こうして熱を出すと乱暴な継父に納屋へ放りこまれたものだ。血の繋がらない父親という名の他人は、気に入らないことがあるとすぐ秀吉に手を上げた。酒を飲めば暴力には拍車がかかり、母親にも抑えようがない。弟妹達はその父の実子なので可愛いがられており、暴力の対象にはなりえなかった。狭苦しい家の中で自分の居場所だけがそこに存在しなかったのだ。
熱を出すと決まって、とっととくたばってしまえと自分を罵倒する継父を幾度憎んだことだろう。誰にも看病されず納屋に押しこめられ、藁にくるまって眠りながら、涙が止まらなかったことをよく覚えている。
体が弱っている時は心までもが弱りきる。一人で熱が下がるのをひたすら待ち続け、辛くて辛くて、体中に襲いかかる苦しみとは別に、孤独の痛みに負けてしまいそうになった。自分が死ねば継父が喜ぶ、そのことだけが許せずに、憎いと思う気持ちだけで病を乗り切ったと言っても過言ではない。


一人だ。自分は孤独だ。


寝込むと幼い頃に味わった苦痛は、波が打ち寄せるみたく静かに押し寄せてきた。心細くて、体ではなく心の方がより辛かった。大人になった今でさえ、誰からも必要とされなかった幼少時の孤独が変わらず秀吉を虐げた。

秀吉は頑なに双眸を閉ざして奥歯を噛み締める。胸奥にこびりついて離れない孤独は、一番助けが欲しい時程自分を苦しめ憂鬱にさせる。辛い、とおぼろげな意識に染みのように浮かび上がってくる言葉を必死に打ち消した。子供の時に負った傷は深く肉をえぐり、癒えたと思っても不意に裂けて血を流す。昔のことだと忘れてしまおうとしても、味わった嗟嘆が鮮烈であればある程記憶に根強く残って消えはしない。いつまでも、こんな些細なことに傷ついている自分の弱さも今はひどく辛く、情けなくて苦しくて、やりきれなくて泣いてしまいそうだった。


甘いものが欲しい。


眦に滲む涙を拒みながら秀吉は懸命にそれだけ思う。甘いものが、甘く喉を潤すものが欲しいと。

現在の主君、織田信長に士官した当初、秀吉は小人として足軽頭、浅野又右衛門の元で生活していた。小人は主の身辺を世話する最下級の雑兵だが、信長の側にいることが多いためよく働けばそれだけ主の目に留まる役職でもある。そうでなくとも、自分は主に気に入られ、当時から衆道の相手として有能さの面だけではなく頻繁に用いられた。それは今尚変わらず、主がしきりと自身に登城を求めるのは単に会話を楽しむためだけではない。

例によって春先に熱を出した自分は又右衛門の長屋で、一人粗末な布団に伏していた。主が不便に感じないよう、止むを得ず、非番であった別の小人に頼みこんで交替してもらった。薬など買う余裕はなかったので、横になっている他に治療の術はなく、五日も仕事に戻れない不甲斐なさに歯がみしつつも、自然と寝入って目を覚ました時には日が暮れていた。目覚めると平素に比べて、長屋が騒がしいことに気づいた。何があったのか、騒音の元を確かめたい好奇心が疼いたが体がそれに伴わない。仕方なく秀吉が再び眠ってしまおうと目を閉じた瞬間、どかどかと乱暴な足音が聞こえ、自身が横になっている部屋の障子戸がこれまた粗雑に開かれた。音に驚いて目を開くと、なんとそこには信長が立っているではないか。

既に反射であった。
主君の姿を目にした途端、秀吉は起き上がろうとしていた。しかし、よいと鋭い声で制して信長は、寝ていろと言を継ぐと後ろ手に障子戸を締めて褥の傍らにあぐらをかいたのだった。

しけた面をしておるのう。健やかなるが取り柄のうぬらしからぬ様よな。

豪快に笑って主はまず、そんな揶揄を口にした。秀吉も弱く笑みを作って応じたが、平常のように元気よく答える力はなかった。信長はにわかに笑みを消して、許せと穏やかに言った。

倒れたと聞いた。始めは大袈裟な奴めと思うたが……。

珍しく語尾を濁して信長はすまなそうに苦笑してみせた。いたわることに不慣れな、鋭さを解し切れない精悍な顔貌にありありと浮かび上がる困惑を見て取り、秀吉は思わず、信長様と涙声で口にして手を伸ばしていた。
小人ごときのために見舞いにやって来た主の、どう優しく接すればよいのか戸惑う姿に申し訳なくてありがたくて、自分でもどんな言葉で感謝をすればいいのか分からなくなっていた。いつものように叱ってくれてもいい。怒鳴ってくれてもいい。自分が終生の主と定め、敬慕して止まない男が側にいてくれる、そのことが、どんな手厚い看病よりも嬉しかったのだ。自分がどんな顔で主の名を呼んだのか判断はつかなかった。ただ主は手を伸ばした自分を見て、やるせないといったふうに眉をひそめた。しかし、主は即座に平常と同じ凜とした笑顔を取り戻した。

うぬがおらぬと不便じゃ。はよう治せ。

そう言って信長は秀吉の手を取り上げ、掌中に紙らしきものを握らせた。効かずば焼き払ってくれるなどと物騒なことを口走って笑った主は、薬師如来よ、そう端的に言った。
薬師如来は衆生の病苦を救うとされている如来である。どこの寺院にまで足を延ばしたのか、その薬師如来の札を主は自分に持たせたのだった。主は決して神仏を信じていない訳ではなく、信じた成果が得られぬものを嫌っているだけだった。だからこそ、見舞いの品に薬師如来の札を選んだのだろう。自分が快方しなければ、言葉の通り如来のお堂を焼き払ってしまい兼ねない。秀吉は札をもらった喜びの反面、お堂が焼かれる前に早く治さねばならないと自然に慌てていた自分に少し苦笑いしてしまった。

自身の掌中にある紙をやんわりと握り締め、秀吉は掠れた声で、勿体のう……と礼を口にした。通常ならば大仰な奴だと苦笑される程、喜ぶ時は全身で喜ぶ質だが、起き上がることもままならない身では言葉だけでも精一杯の表現だった。
主は無言で頷いてから、おもむろに手を伸ばして秀吉の額に大きなてのひらをそっと添えた。発熱のために生じる温度差もあっただろう。だが、その手はひどく冷たく感じられ、汗ばむ額に染み入る心地よい感触はどうしようもなく穏やかで優しかった。
この時程人に触れられることが嬉しいと思ったことはなくて、眼窩の奥底から熱いものがこみ上げてくるのを止めることはできなかった。


無性に泣けた。無性に安心した。


長く自分の胸奥にこびりついていた孤独が、砂のように崩れ去ってゆく。そんな気がして、涙が溢れた。

主は少し驚いた顔をしたが、ぎこちない穏やさで、辛いかと尋ねた。自分はただただ首を小さく振ることしかできず、そんな自分に主は、そうかと答えて無闇に流れ落ちる涙を手の甲で拭ってくれた。その乱雑な所作にこめられた気遣いと愁いを知り、また涙がとめどなく流れ、堪えることはできなかった。叱られると思い、必死に押し止どめようと奥歯を噛み締めたが、溢れ出る塩水は涸れることなくこめかみを伝い落ちてゆく。
てっきり、泣くなと叱咤が飛ぶと予想していた主の口から、辛い時は泣けとあやすように言われ、思考することも忘れ疲れて寝入るまで泣いた。その間、主はずっと律義に自分の涙を拭ってくれていた。

発熱による不快感を眠りの最中でも味わいながら、蒸気に巻かれたみたく霞む意識の隅で、冷たいてのひらが自分の頬を撫でる感触を確かに感じていた。身体的な辛さは無論消えはしなかった。だが、寂しさも苦しみも、心奥で秀吉を酷烈にいたぶる陰惨な暗闇は霧のように散って消え去っていた。

定期的に熱を出す自身の体質に悩まされ続けてきて数十年、あの時、主が見舞いに訪れたあの時に自分は始めて救われたのだ。熱に浮かされながらも、何を考えることもなく安らかに眠りに就くことができたのは、あの時だけだった。執拗にこびりつく痛みを溶かし、心に染み入ってくる主の優しさに身内が震える程の歓喜と安息を覚えた。

本当は側にいて欲しかった。
だが、口にしてしまえば主を困らせるだけだとも分かっていて、すんでの所で言葉を飲みこんだ。

寝てしまった自分には信長がいつ頃帰ったのかは分からなかった。しかし、翌日のこと、様子を見にきた又右衛門が椀に入った水を秀吉に差し出した。若様からだと言われ、怪訝に思いながら水に口をつけると、口内に淡い甘味が広がり、空腹と疲労に憔悴しきっていた痩躯には柔らかな甘さがこの上なく染みた。粥すら喉を通らなかった体に甘い水は軽々と流れ落ち、渇ききった細胞の一つ一つをあますことなく潤してゆく。
水の中に残った透明なかけらを口に含むと、それは今まで食べたどんなものよりも甘く、水に入っていたものが飴だということにようやく気づいた。

例え豪華な食卓で舌が肥えたとしても、自分は一生あの飴の味を忘れはしないだろう。
水に溶けた飴の淡い甘さと、残ったかけらの濃い甘さ、舌を滑る歓喜はそこに込められた感情の深さを彷彿とさせ、自分が飲み干したのは主の愛情だったと今でも信じている。

馬鹿な奴と笑ってくれるだろうか。
単に食べ物を受けつけずに消耗した体が甘味を欲しているのではなく、胸奥に滞る辛さを消し去るのに甘いものが欲しいと思う自分の弱さを、主は笑い飛ばしてくれるだろうか。

秀吉は再び、ふっと小さく喘いで双眸をしばたたかせた。睫が濡れ塩水が眦に溜まる。甘いものと頑なに思い続けながら、胸に浮沈する本心に歯がみして、声ならぬ声で、信長様……とすがるように呟く。




側にいて欲しかった。



しかし、多くの「距離」がそれを妨げて、些細な望みは飲みこんでしまう他ない。
かといって、我がままを押し殺す自制を身につけることはできず、届かなくてもせめて祈るように手を伸ばす。

何故、誰よりも深く心も体も繋ぎ合いながら、不意に遠く離れてしまうのだろう。
見えない鎖に束縛されているかのように、眼前にあるてのひらを掴もうとしても前には進めない。


側にいて欲しいと思った。


それさえも口にはできず、自分の物分かりの良さが何よりも恨めしい。