慌てることも騒ぐことも無価値だと分かっていて落ち着かない気分に陥るのは、あるべきものがすっぽりと抜け落ちてしまったような喪失感を皆が感じているせいなのだろう。

実際自分とてそうだ。同じ小姓衆の加藤清正と福島正則が、慌てふためいて医者や薬を探しに城下町へ飛び出して行ったのを憮然と見送ったくせに、先刻から廊下を意味もなく行ったり来たりしている。気がついて足を止めても、離れを眺め見ていると自然に足が動いていた。離れには自身の主君、羽柴秀吉がいる。珍しく熱を出して倒れた主は今、朦朧とする意識の狭間で高熱の苦しみに浮かされているに違いなかった。

石田三成は元より固く握り締めていた拳を更に強く握る。爪がてのひらに食いこみ痛みを発していた。だが、何もすることのできない自分の無力に募る悔しさは消えず、手の力は緩やかに強まっていく。白くなり冷たくなってゆく指先とは正反対に掌中を湿らせる汗は、狼狽というより恐怖心が胸中に焦燥を生むせいだろう。

あの人が、自分が最も敬慕して止まない主が死んでしまったら。

想像するだけで背筋が凍りついた。全身を巡る血液が冷水にすり替わってしまったかのように、四肢が強ばり体の真芯から悪寒が走る。

長浜にいた頃から、秀吉が毎年春先になると熱を出して倒れることは三成も知っていた。無論自分だけでなく、清正も正則も分かってはいるはずなのだ。五日もすれば何事もなかったみたく、主が笑顔を見せて、心配かけてすまんかったなと自分達の頭を撫でつけてくれると予測はつく。持病というよりは体質に似たものだと秀吉も言っていた。だからこそ、今年も大丈夫だと、すぐに快方に向かうと信じてもいる。

しかし、恐ろしかった。
秀吉がいなくなると屋敷は活気を失い、沈黙と陰鬱に支配される。主がいてこその陽気と快活であり、三成達だけではなく、家臣一同も肌でそう感じているのだろう。闊達な主の笑い声が消えると、火が消えたように皆が朗らかさを失ってしまう。それ以上に、三成にとっては秀吉の身が案じられた。必ず快方すると誰が断言できるだろう。並ならぬ高熱を出して倒れた人間が、命を取り留めても視覚や聴覚の機能をなくしたという話など、三成は幾度となく耳にしている。それに、よもや命まで失わないと断定できるというのか。この世に絶対に近しい事実は存在しても、絶対である事物など存在しない。完全に無事だと分からない限り、誰かが無責任に口にした大丈夫という言葉で安堵を得る程三成は子供ではなかった。
自身でも知らず知らず、思考が悪い方向へ落ちていく。秀吉がいれば笑い飛ばしてくれるような些細な消極なのに、自身ではそれさえ吹き飛ばしてしまうことができなかった。

廊下から離れを見つめて三成は端正な面を苦く歪める。不機嫌というよりは泣きそうな苦みをはらんだ表情で、障子戸の締め切られた離れをひたに見つめていた。
常に傍らにいて逐一主の世話をしたかったのだが、秀吉の性格を考えると看病する人間に対して気を使うだろうことは容易に察しがつき、つきっきりでいれば逆に主君の精神が休まらない。秀吉の妻、ねねでさえ、着替えや飲み水の交換などといった必要最低限の世話と時折様子を見にいく以外に離れへ足を向けることはしない。秀吉自身がそう望んでいるらしいことも、三成にはなんとなく分かっていた。

待っていらっしゃるのだな……と三成は胸中で呟き、氷のごとく凛然とした双眼を細めて唇を噛む。
いつ頃からなのかは三成にもはっきりと知ることはできなかったが、毎年この時期になると「吉法師」という人物から薬が届く。それは三成が長浜にいた頃から例年通り続いており、さりげなくねねに尋ねると、どうやら彼女が秀吉に嫁ぐ前から「吉法師」の贈り物はあったらしかった。届ける医者は変われども、彼らは一様に「吉法師殿からご依頼受け申した」と言うだけで、その人物がどこの何者であるかは決して口にしない。ねねの手が塞がっている際は、接客係として三成が彼ら医者達の相手をするのだが、「吉法師」のことをいかに問いただしても、秀吉の旧知だから名前を伝えれば分かると笑顔で躱されてしまうのが落ちだった。ねねが嫁ぐ前と言えば、主が織田信長に士官した当初からの知り合いということになるが、ここまで律義に毎回、しかも、主が倒れた頃合いを予知したかのように見透かして薬を届けさせる人間となると、三成には思い当たる節がない。否、ないと言えば嘘になる。ただ三成自身が一番否定したい人物だからこそ、己を宥めるために思い当たらないふりを押し通しているだけに過ぎなかった。

確信がある訳ではない。
名前を偽ってまで薬を届けさせる真意とて計り兼ねている。だが、有り得るとすれば、三成には一人、最も可能性の高い人間の名を挙げることができる。

織田信長、と吐き捨てるように心中でその名をこぼして、三成は眉間に深々と皺を刻んだ。

自身の主である秀吉が心酔し、無上の忠誠を誓うその男を、三成は誰よりも嫌悪している。信長の人となりというよりは、秀吉の心を何よりも強く独占する存在の激しさを、憎むのに近しい色濃さで嫌っていた。

不思議で仕方がない。秀吉のように、日輪のごとき明朗さと誰も彼もをとろかしてしまう人懐っこさを兼ね備えた人間が、温度を持たない烈火のように、冷酷にして残忍、厳格にして苛烈な、人好きのしない信長に仕えていること自体、違和感がある。それ以上に三成を不快な感情に陥れるのは、信長と秀吉の間には誰もが立ち入ることのできない強固な結びつきがあることを痛切に感じさせるからだ。

絶対の事物はこの世の中に存在しない。それなのに、あの二人は絶対に近しい完全さで、彼らの間に何者かが介在することを許さない。絆、魂、そして、運命と、無形でありながら、人があると信じてきた、曖昧なくせに強烈な繋がりを、あの二人からは鮮烈に感じるのだ。
「吉法師」が信長であるかどうかは分からない。断定するだけの証拠を掴んだ訳でもない。自分の思い過ごしだと無理にでも納得すれば、まだしも胸中を焦がす暗い感情を押しこめることができた。
三成は離れから目を反らすことなく、赤銅色の髪を乱暴に掻き乱した。

秀吉は「吉法師」が届ける薬を待っている。
病床に伏しながら、恋人の訪れを待つ少女のような純粋さで待ち焦がれている。近年では、かの名医、曲直瀬道三が届け役を務める薬の内容は「川きゅう茶調散」「桂枝湯」「黄耆建中湯」と必ずその三種で、内二つは発熱に、内一つは疲労と体力低下に効く薬である。今年もそろそろ届くであろう三種の薬は、主の疲弊しきった精神を少なからず癒すだろう。実際に効能があるかどうかよりも、主は「吉法師」の名を、何者かも知れない男の届け物を喜んでいるのかもしれない。

俺は何もできぬのかと心中で悔しげに自問して、三成はその場にあぐらをかいた。いっそ清正や正則のように、動揺を面に表せるだけの素直さがあったなら、やりきれなさに歯がみする必要もなかったかもしれない。だが、頑是なく自分の根底に居座る自尊がそれを許さなかった。時期的に道三が来ると分かっていて、医者や薬を探すために無駄な奔走をする単純ささえも自分にはない。理論的にしか物事を解することのできない頭脳が、今は厭わしかった。

秀吉様と思わず口内で呟き、三成は項垂れて奥歯を噛み合わせる。そして、唐突に立ち上がると離れに足を向けた。離れの縁側で待機する程度ならば主も気を使うことはないだろう。せめて、それだけのことであっても何もせずにいるよりは、はるかにましだ。三成は平素の行儀良さも忘れて廊下を疾走した。
が、不意に視界の端へ人影を捉えて足を止める。庭に目をやると見覚えのある人物が主屋に歩いて行く姿を確認することができた。三成は、あっと声を上げ体躯を反転させると今度は主屋に向かって駆け出す。
一昨年も昨年も見た顔である。記憶力に自信のある三成が忘れるはずはなかった。
「道三殿!」
庭の縁側にたどり着き、ちょうど人を呼ばう所であったのだろう、名医は三成の姿を見て取り、ほっとしたように笑みで応じた。
「おお、これは佐吉殿」
御無沙汰しておりますと自分のような小姓にも丁重な会釈をして、道三は腕に抱えた薬籠を縁側に据えた。
「土間からお声をかけましたが、誰もおられぬご様子。止むを得ず、こちらからお邪魔しましたがよろしかったかな?」
笑顔を向ける道三に無言で頷き返して縁側に膝をつくと、三成は
「元服し、名を石田三成と改めました」
と抑揚のない声で端的に告げる。それは祝着至極と再び頭を下げた道三は、薬籠の蓋を開いて中に揃えてある薬の数々を片手で示した。
「では三成殿、早速ですが」
「やはり『吉法師』殿からの?」
毎年同じ薬を持ってくるというのに、懇切丁寧に説明を施してくれる名医の言葉を遮り、三成は眉間に薄く皺を刻んで問う。
「いえ、今年は吉法師殿と……」
言いかけて道三は薬籠の蓋を閉じると、所でと卒然話を切り替えた。
「羽柴殿を見舞いたいと仰る方がいらすのですが、いかがでありましょうや」
見舞い? と問い返して、笑みを湛える道三に遠慮することなく渋面を見せた三成は、さも不愉快げに双眼を細める。
「それは気が利かぬ申し出にございますな。我が主は起き上がることもままならぬ次第なれば、そのような折りに見舞いなど迷惑千万。お断り申し上げる」
目上の道三に対して後込みもせず、冷厳と拒絶の意を口にすると、三成は怜悧な相好から表情を消した。三成が常に重んじるのは秀吉の大事であり、僅かでも主の安息を乱すのであれば、何者であろうと排除することを厭わない。相手が毎年薬を届けにくる医者であったとしても、主に少しでも負担をかける行為を要求するのであれば最早三成にとっては敵だった。
「ふむ。どうあっても、かないませぬか」
「どうあってもだ。貴方も刀圭家なればお分かりだろう。用が済んだのならお引き取り願おう」
手厳しく言い放っても、道三は温厚そうな顔貌に苦笑を浮かべただけだった。
「三成殿、そう邪険になさいますな。どうしてもと客人たっての願い故、手前からは無下な物言いはできませぬ。そこでお頼み申し上げたいのだが、客人に今し方と同じ言辞をご口上下されますかな」
何がおかしいのか、ふふと小さく笑いを漏らした道三の態度に苛立ちを覚えつつも、大きな溜息をついた三成は、切れ長の眉を吊り上げて腕を組んだ。
「致し方あるまい。では、その客人とやらをお連れ頂こう」
誰が来ようと追い返してやると心中で苦く吐き捨てて睫を伏せた三成に、では、しばしお待ちをと告げると道三は屋敷の入り口の方へと小走りに駆けて行った。
寸刻も置かず、道三は一人の巨漢を連れて庭に取って返してくる。
前に立つ道三と比較しても、男が随分と長身であることは一目見て判断がついた。男は深編笠を被り、小綺麗な小袖と袴を着込んだ上に帷子を羽織って袖は通さず着流している。腰に佩した脇差は異様に長く、並大抵の腕力では振るうことはかなわないだろう。奇抜とまではいかないものの、風変わりな服装であることには変わりがない。三成はまず、男の少し変わった風貌に眉をひそめたが、よくよく眺めれば、男のたたずまいは単なる牢人風情のそれでないことが分かる。
恰幅の良さはずば抜けているが、一挙止一頭足から漂う気品は細やかで、粗雑さや野蛮さをかけらも感じさせなかった。しかし、その身に纏う高貴とは相反した鋭い機敏さと、陽炎のように立ちのぼる威勢は些少の抗いさえも許さない厳格に満ち、為す術もなく畏服せざるを得ない峻烈さがある。

道三が自身の眼前に戻り、お連れしましたぞとにこやかに背後を一瞥したが、三成は深編笠の男に気圧され、結んだ口を開くことも忘れていた。男が深編笠の隙間から、研ぎ澄まされた刃のごとく、冴え冴えとした眼光で三成を瞥見する。三成は内心ひどく狼狽していたが、努めて顔色を変えず道三に向き直ると男の正体を問いただそうとした。だが、にわかに男は深編笠を取り去り素顔を晒す。

明らかになった男の顔を見て三成は更に鼻白んだ。

呻くように

「信長……様!」

そう、一寸遅れて敬称を添え、その名を口にして男を凝視する。

道三の背後には紛れもなく、己の主、秀吉が敬慕する唯一無二の主君、織田信長が立っていた。
秀吉に連れられて二度程安土城へ登城した際に、遠目からではあったが信長の顔を見たことのある三成には、信じられずとも間違えようはずがない。

まさか……! と胸中で驚愕の喚声を上げた三成を信長は無表情のまま凝見し、童と低音ながらもよく通る声を発した。
「秀吉はいずこにある」
「恐れながら……っ」
「答えよ」
お前の話など聞く耳持たぬといった風情で、出し抜けに秀吉の居場所を答えろと要求してくる不躾さに一瞬色をなした三成だったが、ぐっと奥歯を噛んで堪える。当然、秀吉の小姓風情である自分の顔と名を信長が記憶しているはずはなく、童扱いされたことも三成の自尊を傷つけた。
しかし、帰れと叫びたい気持ちを必死に鎮めて信長に対し恭しく叩頭する。
「秀吉様は今、静養が必要にござりますれば」
「さえずるな」
わずらわしげに鋭利な双眼を眇め、信長は三成の言葉を呆気なく断ち切った。
「案内せい」
重い威圧がこめられた命令に、三成は反論を喉の奥へと飲みこまざるを得なかった。
圧倒的な存在感に剥いた牙をへし折られる。腹の底に響く重厚な低音は、自分の抵抗と反発がいかに幼稚であったかを思い知らされるに十分な代物だった。

逆らえない。

理性ではなく本能でそれを理解する。自分はこの男に逆らうだけの威勢など、いまだ一片も持ち合わせていなかった。
三成は顔を上げることもできず、悔しさに顔を歪め、縁側についた手を震わせて血が滲むまで唇に歯を立てる。


負けた。
完膚なきまでに。


そう思った。









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薄暗い室内は外とは違って不思議と寒々しく、部屋のちょうど真ん中に整えられた寝台は、打ち捨てられたかのように物寂しく佇んでいる。様子を見る人間が着いていないのは、秀吉が看病人に対しても気を使うので、精神を休めるには却って傍らに人がいない方がよいと考えてのことらしい。

確かに一理あると心中で苦笑して信長は静かに障子戸を締めた。
案内された離れには自分と眼前に横たわる病人以外に人の気配は感じられない。案内をさせた小姓らしき青年は、信長の深編笠と帷子、そして、脇差を預かり、逃げ去るようにして主屋の方へ引っこんでしまったため、彼がどのような状態なのかを尋ねる暇もなかった。褥まで足を進め、傍らにあぐらをかいた信長は、眉根を寄せて微睡む秀吉の顔に目を細める。枕元には盥や提子が置かれており、その横には見覚えのある紙切れがぽつんと据えられていた。古びて所々切れている紙には、消えかかった薬師如来の姿が描かれている。
信長はその紙切れを手に取り、描かれた薬師如来を苦々しく睥睨した。
病苦を救うのが役割ではないのか。役に立たないのなら、無駄に費やされる利益ごと、伽藍を焼き滅ぼして灰にしてしまおうか。すがる者の手に救いを差し伸べることもせず、静観しているだけの役立たずに崇められる資格などない。思わず紙を握り潰してしまいそうになり、すんでの所で思い止まる。

今でも鮮明に思い出すことができた。
昔、秀吉にこの紙切れを渡してやった。彼は今のように高熱を出して寝込んでいたが、自分が見舞いに行った翌日、すっかり元気になって平常のように顔を見せた。その時、笑顔で駆けよってきた秀吉が、この紙切れを自分に見せて言ったのだ。

如来が救うて下さりました、と。

彼なりの照れ隠しであり、配慮、そして、冗談でもあったのだろう。人前で信長に礼を言えば、たかが小人ごときの見舞いのために主君が長屋へ足を運んだと多くの人間に知られることになる。秀吉だけを見舞ったのであれば、間違いなくそれは贔屓と見なされるであろう。だが、大勢の家臣に同じ振る舞いができる程信長には時間がある訳ではない。だからこそ、彼は薬師如来のおかげで良くなったと言ったのだ。本心からそう思って言った訳ではないだろう。

あの時の……と胸中で独白し、手にした紙切れを元あった位置に渋々戻した。

秀吉がまだ小人として信長に仕えていた頃、仕事熱心な彼が珍しく代理として他の小人を自分の元によこしたことがある。理由を尋ねると、彼が熱を出して倒れたからだと言うではないか。
自分と同じ、健康面では別段何の問題もないように見受けられた秀吉が倒れたなどと、ひどく奇妙な感じがして、最初信長は彼が自分に付き合うことに嫌気が差したため仮病を使っているのではないかとも疑った。疑うだけの根拠はあったのだ。当時の自分と彼はほぼ四六時中行動を共にしていたと言ってもいい。現在は互いの職務上、顔を合わせる機会が少ないので頻繁ではないが、衆道の相手として彼を抱く回数ときたら、当時の自分は発情期の獣のごとき激しさであったことをよく記憶している。それも家屋内のみならず、森や野原で行為に及ぶ場合もあり、確かに見境のない自分の相手を毎日させられていれば、倒れるのも無理はないし、仮病を使っても体を休めたいと考えるのも当然だと思った。
昔から自分と彼は体格差、体力差が顕著なので、一日の内に何度となく相手をさせた時などは彼が動けなくなることもしばしばあった。羞恥はあっただろうが、嫌がってはいないと、その頃から感覚的に秀吉の胸中を読み取ることを自然にこなしていた信長はそう思っていたので、仮病を使いたくなる気持ちは分からないでもないが、おかしな話だとも考えていた。試みに問うてみれば、代理としてやってきた小人は秀吉の様子を事細かに語ることができ、話を作っている素振りはない。ようやく彼が本当に病気なのだと納得し、信長は即座に思い立って、薬師如来を安置する寺を探した。領内の外れにあった寺で札を手に入れ、病に伏しているのであればまともな食事はできないと予測がついて、城下の市で飴を買い、見舞いに向かった。

訪れた自分に驚いた彼の姿は見たこともない弱りようで、このまま息絶えてしまうのではないかと途端に恐ろしくなり、顔を見るだけのつもりが気づけば布団の傍らにあぐらをかいていた。
信長様と今にも泣き出しそうな顔で呼ばれ、彼のか細い声に苦しくなる程胸を締めつけられて、仮病ではないかと一度でも彼を疑った自分が無性に情けなく感じられた。小さい手に札を握らせ、後は飴を置いて行けば用は済んだはずなのに、彼の側にいてやりたいと強く思った。何げなく秀吉の額に手を置くと、その熱さにも驚いたが、彼がはらはらと涙を流し出し、平素から人に優しく接することに不慣れな自分はどんな言葉で慰めることができるのか分からなくて、苦し紛れに、辛いかと尋ねたのだ。秀吉は必死に涙を堪えようとして唇を噛みながら首を振った。そうか、としか応じられず、だが、秀吉が苦悶のために涙している訳ではないと理解していた。

彼の心に拭い切れない孤独が棲みついていることを信長は知っていた。誰からも理解されずに過ごしてきた幼少時から、同じそれに晒され続けていたせいだろうか、自身でも神懸かりという他ない敏感さで彼の孤独を悟ったのだ。誰の優しさや愛情でも救われない、癒せない、そういう痛みが自分と彼の中には執拗にこびりついていて、相身互いではなく同じ痛みを知る者の同調と共鳴によってでしか埋めることのかなわない傷がある。

あの日、彼が流した涙はひたすらに安堵のせいだった。求めていたものを手に入れた喜びと安らぎの。

泣き疲れて眠ってしまった彼の顔を見つめながら、自分は随分と長いこと動けなかった。何度も見舞いに来てやれる立場ではないことを自分自身がよく分かっていたからだ。去れば次に彼を見舞う機会は、長いこと得られない気がしていた。
様子を見にきた近習に促され仕方なく城へ戻ったが、帰り際、彼の面倒を見ていた浅野又右衛門に飴を渡し、水に溶かして飲ませてやれと命じておいた。弟が熱を出した時、粥を吐き出してしまうことに困った乳母が、水に飴を溶かして飲ませていたのを覚えていたので、それを真似たのだ。

治った後で秀吉本人から聞いたが、彼は毎年この時期になると熱を出すとのことだった。それが事実である証拠に、翌年、秀吉はやはり熱を出して倒れた。既に身動きが取りづらい立場に落ち着いていた信長は、見舞いに行くことを断念するしかなかった。そこで薬を贈ることを思いついた。無論、名前を出すことはできなかったが。

初めて「吉法師」として薬を贈った時、薬を届けた医者から秀吉の言伝を聞かされた。その節は、飴を頂きありがとうございましたと伝えて欲しい、彼はそう言ったという。吉法師が誰であるのかは、察しのよい彼にならば分かっていたはずだろう。だが、自分の意図を汲んで彼は信長の名を一切口にせず、また、言動にも表さなかった。例え己が苛酷な状況に陥っても、彼は常に主のことを先に考える。己の身より命より、主君である信長のことを。一途にそれだけを思う彼の健気さを分かっていながら自分は。
医者から彼の言葉を伝えられた瞬間、胸奥から吐き気がする程激しく噴き出してくる怒りを御することもできず、部屋にあった物という物をことごとく破壊し、狂ったように暴れまわったことをよく覚えている。

許せなかった。
自分自身を許しがたかった。

名前を偽って薬を届ける姑息に甘んじている卑小さも、それ以外には何もできないと痛感している自分の諦観も。そして、彼が自分の配慮を理解し、それに合わせると知っていて、偽名を用い、他人に薬を持たせた己の浅はかさと非力を何よりも強く憎悪した。止むを得なかったなどとは思わない。すべては自分の無力が招いた結果だ。憎むべきは己自身だった。

あの時程に自由でないことを苦痛に思ったことはない。また、抑止するにはあの頃の自分はまだ幼すぎた。渇きにも酷似した彼への苛烈な愛情を、冷徹な仮面の下に深く隠しおおせるには、まだ。だからこそ、彼の側にいられないという瑣末な現実を、仕方がないと切り捨てることはできなかった。今でさえも、切り捨てることなどできようはずはなかったが。

色褪せてゆく感情ならば、忙殺されんばかりの日々の中で忘却し、手放すにも惜しみはしなかっただろう。だが、月日を重ねて一層鮮やかに彩りを増してゆく情熱は、自身の死によってでしか終焉を迎えることはないのだと分かっていた。この世に生まれ変わりなどというものが存在するとするならば、或いは、死ですらこの想いを殺すことはできない。

不確かで目に見えないものを嫌う自分が運命などというものを信じるとしたら、それは何ものにも変えがたい唯一の存在と出会い、その存在を愛した時なのだろう。

眉間に深く皺を刻み、奥歯を強く噛み合わせる。
一度瞼を閉じると昔見た光景が眼裏で重なった。

変わらない。

心臓よりも更に奥深くに息づくただ一つの感情は、昔も今も決して。

ふと、秀吉が薄く目を開いて、虚ろな双眸でこちらを見た。瞬間、自分に気づいて彼が身を起こそうとしたが信長は素早く、よいとそれを制した。ひくりと痩躯を揺らして褥に浮かせた背中を沈めた秀吉が
「信長様……」
と目を丸くして自分の名を呼んだ。驚きを含んだ語調に苦笑いを見せると、秀吉が手を伸ばして、お手をと求めてくる。信長は畳の上で震える細い手を包むように握り締めて指を絡めた。一瞬、掌中で彼の手が引きつる。しかし、すぐに指に指を絡め、ああ……と何かしら、意外そうに安堵の溜息を漏らした秀吉に目だけで問うた。
「幻かと……」
弱く笑って掠れた声でそう答え、秀吉は苦しげに息を吐いた。ふっと軽く笑って応じると、彼は握り締めた手に微かな力をこめる。
「うぬらしからぬ様よな」
喉元で短く苦笑し信長は昔、自身が言ったことと同様の台詞を口にした。
「はよう治せ」
やはり同じ言葉で続けた信長に、勿体のう……と力なく応じた秀吉の双眸から、不意に大粒の涙がこぼれ落ちた。
「辛いか」
尋ねると彼は無言で首を左右に振る。
「嘘を申せ」
再び首を振った秀吉の頬を、空いた方の手を伸ばし親指の腹で撫でてやって微苦笑する。
分かっていて揶揄した。
彼の涙は昔も今も、辛苦からくるものではないと。
「安堵……致しましてござりますれば……」
そう言って小さく笑いながらも、充血した彼の両目からは絶え間なく温かい滴が溢れ、止まらなかった。知っていると心中で秀吉の言葉に応じ、彼の手を握る指先に柔らかく力をこめる。もう一方の手の甲で熱い塩水を拭ってやると秀吉は静かに瞼を閉じた。だが、体を襲う高温が寝入るのを妨げているのか、彼は再びうっすらと睫を持ち上げ、大きく吐息した。吐息と共に、ひゅうと音が鳴り、彼の喉が渇いていることを知って信長は提子に目をやる。
手を解き、秀吉の体躯の下に腕を差し入れて支え、丁重に起き上がらせると信長は枕元の提下を手に取り添えてあった杯に水を注いだ。そして、注いだ水を一気にあおり、片腕に抱き起こした秀吉の、半開きになった唇に自身のそれを重ね合わせた。含んだ水を開いた口唇へ流し落とすと彼の喉が鳴り、水が飲み干されてゆく。満足したように痩身が脱力し、離れると、信長様……と独白みたく口にした彼の頭が信長の肩に預けられた。布団に戻してやろうとしたが、彼の手が袖を掴んでいることに気づいて手を止める。大きく上下する肩を片手に包み、ぐったりともたれかかってくる痩躯を肩と胸で支えてやった。

触れている箇所から高く燃える体温が伝わり、自身の皮膚が同じ温度を帯びてゆくごとに胸を襲う痛みで喉の奥がひりつく。腕の中で苦しげに呼吸を繰り返す体を、あくまでも緩く抱き締めて、信長は自身の袖を掴んでいた彼の手を握り締めた。

軽い体だと思う。武士と言うには細作りな。

刀の重みを支え切れない腕も、軽やかに走り回る脚も、自分に堅く抱擁されれば痛みに喘ぐ肩や背も、平素から自身の手で確かめて暴く彼の華奢な躯幹は、今にも砕け散りそうな程弱々しく力を失っていた。
彼が弱っている姿を見ているだけしかできない、それはひどく自分を腹立たしく、やれ切れなくさせる。抱き締められない、触れても声をかけても、どうしようもなくて、会いにきたとしても辛いことに変わりはなかった。

それでも、側に、近くに寄り添うことすらできない焦燥に焼かれ続けるよりは、まだ耐えられる。
耐えられるのだ。

どのように立ち回ったとて苦しみを伴うのなら、せめてもの抗いに触れられる距離にいることを選択する。


一瞬でも、刹那でも、その手を。






側にいたかった。




しかし、多くの「距離」がそれを阻んで、些細な望みもかなわない。
かといって、もどかしさをやり過ごす冷淡さを覚えることはできず、届かないと知りながら頑是なくも手を伸ばす。


何故、誰よりも強く心も体も寄り添いながら、不意に遠く離れてしまうのだろう。透明な壁に隔絶されてしまったかのように、卑近にある指先を捕らえようとしても、触れることすらできはしない。


側にいてやりたかった。


それさえもかなえることはできず、自分の無力を憎んで止まない。