口内に淡く広がる苦味は、喉を過ぎ去ると舌先から霧散するように消え、清々しい芳香が鼻孔へと抜けて心地の良い余韻を残す。温くもなく熱すぎもしない茶の温度は飲みやすくもあり、茶葉の風味を損なってはいなかった。

出された茶をすすり、信長は眼前で申し訳なさそうに両肩をすぼめている、ねねを瞥見する。彼女は秀吉の妻で信長とも面識があった。彼が士官してから間もなく迎えた妻でもあり、似た者夫婦とはよく言ったもので、秀吉のように快活で陽気な明け透けさが誰からも好かれる女性だった。彼女は以前秀吉の浮気について自分に泣きついてきたこともあり、その際は手紙で宥めてやったが、夫婦喧嘩の調停を信長に頼むなどということは、他の家臣とその妻には到底できる真似ではない。しかし、秀吉にしろねねにしろ、他愛ないことで自分を頼ってくる気安さが可愛くもあった。

秀吉が女であれば、彼女のような女になるだろうと想像して、自身の白日夢に苦々しく口端を歪める。彼が女であったなら、間違いなく自身の妻に迎えていた。馬鹿馬鹿しいと吐き捨てながらも、頭の隅でこの愚かな考えを肯定している自分がいることを否定できない。もしも、彼が女であり自身の妻であったなら、常に手元へ置いて愛した所で誰からも謗られることはない。

あまりにも馬鹿げた考えに思わず嘆息が口唇を滑り落ちた。愚かなと胸中で己を非難する厳しさで呟いて不快げに眉をしかめる。途端、
「すみません! 折角信長様がいらして下さったのに、お出迎えもできなくて」
ねねが勢いよく頭を下げて、すみませんと更に重ねて詫びを口にした。信長の渋面を自身の不躾が原因ととったらしい、彼女は心底すまなそうに眉を八の字にひそめて信長を上目使いに見る。喜怒哀楽を表現するにも、秀吉やねねは大仰と取られる程に全身で体現してみせるが、それは謝罪する時でも変わりがない。

よいと一言、身を萎縮させて項垂れるねねに返して茶を飲み干すと、信長は目だけで室内を見回した。
秀吉を見舞った時間はそう長くはない。彼の今の状態では話などまともにできるはずもなく、また、長居すればそれだけ体にも負担をかけることになる。いかに毎年のことといえども、無理をさせては治るものも治らない。後ろ髪を引かれる思いではあったが、秀吉が寝入るのを見届けてから離れを出て、奥座敷で待たされているであろう道三とともに城へ帰るつもりでいた。所が、自分の来訪に気がついたねねがどこからともなく現れて、せめてお茶だけでも振る舞わせて欲しいと食い下がるので、寸刻の間だが留まることにしたのだった。

ねねは裏庭の井戸で小袖や布団を洗っていたらしく、長浜から昨日安土に到着したばかりの彼女は、倒れた秀吉の代わりに多忙を極めていた。秀吉自身が少数での帰還だったため、人手が不足していることもあったが、肝心な人手は今、城下町で医者や薬を探して右往左往しているという。残った人数でも看病と平行して炊事を行うには、労働力が不足している訳ではないものの、何しろ来訪者の対応に四苦八苦しているようで、秀吉が帰ってきたと知るや否や、引っ切りなしに訪ねてくる人々を丁重に断ることに手を焼いているとのことだった。さりとて、病床に伏していると伝えれば、今度は見舞いと称して押しかけてくる客の対応に苦慮を強いられる。実際、手が回らないということもあってか、客の訪問に気がつかないこともしばしばあるようで、自然と居留守を使うような形になってしまったらしい。

庭に面した客間から彼のいる離れを臨み、信長は空になった湯飲み茶碗を茶托に戻す。目を戻せば、悄然と両肩を落として顔を上げないねねの姿があり、つい低く笑って、よいともう一度言ってから
「静かなものだ」
と人気のない屋敷の様子に率直な感想を述べる。すると、ねねはようやく顔を上げ、少し申し訳なさそうな表情を残したまま微苦笑で頷いた。
「はい。皆、うちの人の体に障らないよう、気を使ってくれているみたいで……薬を買いに行ったりお医者を探しに行ったり、精のつくものを見繕ってくるといって出払ってしまいました」
秀吉が倒れるのは毎年のことだと彼らも分かっているはずだろうが、黙って傍観しているのは落ち着かないのだろう。少しでも自分に何ができるのかを考え、考えついた事柄を行動に移す姿勢は前向きで好感が持てる。主のために、無駄と知っても必死に奔走する家臣達の真摯さが信長には快く感じられた。くくと喉元で短く笑い、困った顔をしている割りには心なしか嬉しそうにも見えるねねを一瞥する。
「忠節、褒めおくべきか?」
わざとらしく真剣な面持ちを作ると、彼女は、ふふふと鈴のように高い笑い声を上げた。
「うちの子達は皆、心配性なんです」
「そのようだな」
薄く笑みで返した信長に、ねねは元気よく、はいと応じて満面を朗らかな笑みでほころばせる。女性的というよりは母親のように無限の寛容を感じさせる彼女の笑顔は、夏に咲く大輪の花を思わせ、世間話をしているだけでも心和む。無駄に言葉を発しない自分の沈黙を前にしても、菓子をもらうのを待つ子供のように、楽しみだと言わんばかりの笑みを浮かべて次の言葉を待つ姿は秀吉を彷彿とさせ、特に話すことがなくとも何かしら声をかけたくなる衝動に駆られた。
「ねね」
「はい!」
すかさず返されるはつらつとした返事が、どうにもおかしくて口元が自然と緩む。
「秀吉に、明日の晩には登城せいと伝えておけ」
「え? 明日の晩ですか?」
さすがに目を丸くして驚いた彼女の反応に、口角を歪めて双眼を一度閉じる。

他の誰に分からなくとも、自分には分かるのだ。
証拠も論拠もない。
ただ、そう直感していた。

「治る」
明日にはなと心中で語尾を繋いだ信長の顔を、ねねは訝しみもせず、ただ不思議そうな表情で見つめて小首を傾げた。
「なんで……分かるんですか?」
当然の質問だ。
だが、彼女らしい着眼点とも言える。まだ回復していない秀吉の状態を考えれば、明日登城しろという命は傍若無人とも受け取れる。普通ならば辞退を願うか、完治してからの登城を請う所だが、彼女は何故治ると分かるのかということを尋ねた。恐らく、信長の治るという言葉をねねは疑っていないのだろう。こういう素直さや、自分に対して全幅の信頼をおく無垢が、秀吉ととてもよく似ているのだ。

信長は微苦笑して、ねねのきょとんとした顔を見つめ返した。
「薬師如来よ」
端的にそれだけ答えると、案の定、ねねが、はい? と頓狂な声で尋ね返す。
「己の役目を思い出させてやったわ。焼かれとうなければ、吝嗇せず神助致すであろう」
秀吉の枕元にあった薬師如来は、どうやら自分の目がないと知ると彼に与える利益を出し渋っていたらしい。随分と長い空白はあったが、自分の来訪は怠慢な神が神らしい仕事をするよう、多少の脅しにはなったはずだろう。
だが、薬師如来が誰の手から彼にもたらされたのか、当然ねねには知るよしもなく、知っていたとしても、信長の言葉を解するには至らないはずだ。さしもの彼女も、本能的とも言える察しの良さまでは秀吉と似て、とまではいかない。

大きな丸い目をぱちくりと二、三度瞬きさせてから、ねねは突然、ふふと小さく声を上げて破顔した。
「信長様って、面白いことをおっしゃいますね」
心底楽しいというように屈託のない笑顔でそう言った彼女に、釣られて信長もくっと喉を鳴らした。
「で、あるか」
「はい」
恐らく、意味の分からない言葉であっただろう。ともすれば、会話の成立を妨げる発言であったかもしれない。しかし、ねねは不可解そうにも不愉快そうにもせず、面白いと言って笑うに止まる。自分の言動を理解して心底から笑い困り慌てるのが秀吉ならば、彼女は言葉の意味を理解はできなくとも、信長の言動を無意味と感じたり滑稽と思わず、自身が抱いた感想をそのまま口にする。

この夫婦はまったく、どうあっても自分に贔屓をさせたいらしい。

心中で苦笑いとともに、そんな、どうしようもない思いに捕らわれて信長は小さく吐息した。秀吉もねねも、自分の厳格をたやすく軟化させてしまう特殊な技の持ち主だと思わざるを得ない。いかに自戒したとしても、彼らと接していると目をかけて可愛がりたくなってしまうのだから仕様もなかった。だが、それは秀吉に対する特別な想いを差し引くことを前提とした感情で、自分が彼に対して抱えている欲求や衝動は、胸中に平穏をもたらすような生易しい代物ではない。


時には痛みさえ伴い苦しみを助長する、それでも手放せず失えない。喜びを慈しみを優しさを与えながら、それらすべてを一瞬で忘却させる凶暴な苛烈を合わせ持つ、絡み合った糸のように解くことのできない情思を。


ねねの視線に気づいて、いつの間にか無表情になっていた面に微苦笑を滲ませ、信長は溜息をついた。そろそろ城に帰らねばならない時間である。薬の他にも彼に渡しておきたいものがあった。雑談をしていて渡し損ねる前にと、信長は片手を袂に引っ込め、袖に入っていた小さな巾着を手に取る。再び腕を袖口から出すと、急ぎで用意させたその巾着をねねに向かって放った。
「秀吉に食わせてやれ」
離れを顎で示して、巾着を受け止め首を傾げたねねに目だけで、開けてもよいと許した。悟って彼女は丁寧に巾着の紐を解いて口を開き、中身を確かめた瞬間、わぁと感嘆の声を上げる。

「金平糖……!」

子供みたく双眸を輝かせて、巾着に収まった星形の小さな砂糖菓子を熟視するねねを、わざと胡乱げな表情で眺めていると、信長の視線に気がついた彼女が、はっとして
「やだっ、つまみ食いなんかしませんてば」
と目の下をほのかに赤く染め、慌てて眉をしかめる。
「誠か?」
口端を僅かに吊り上げて揶揄すると、もうっと頬を膨らせて、しません! と言い立てたねねに微苦笑する。からかった時の反応までもが、彼に少しだけ似ていた。

ふと、ねねが金平糖の入った巾着をやんわりと掌中に包み、いつも朗らかさを失わない眉を微かにひそめて控えめに微笑んだ。
「信長様、いらして下さって本当にありがとうございます。うちの人、きっととっても喜んでいると思います……」
そう言って離れに目をやったねねの横顔を一瞥し、信長は無言のまま立ち上がった。
十分長居をしている。最早、城へ帰る頃合いだった。今度は引き留めることもなく、ねねが叩頭してから顔を上げる。
「薬も『毎年』すみません」
「わしではない」
言下に否定するとねねがはっとして自身の口を片手で隠す。そろりと目だけで自分を見上げた彼女に苦笑して、信長は
「『吉法師』からだ」
そう言い放って、にっと笑った。
「はい」
両手を慎ましく畳について、些少慌てた様子のまま頷いたねねを目端にとらえ、信長は縁側を一歩踏み締めて足を止める。少し首を傾けると遠目に離れが見えた。障子戸の締め切られた離れの縁側には、先刻自分を応対した青年が鎮座している。


側にいたいと願えば側にいられる、その自由を羨む自分に憐れみさえ覚え、信長は薄く眉間に皺を刻み口元に曖昧な笑みを滲ませる。てのひらにいつにも増して高い秀吉の体温が居残っており、帰らねばならない信長を責めるようにじんとしたほとぼりで皮膚を焼いた。信長様? と背後からねねに尋ねられ、片手を上げてなんでもないと苦笑いをしてみせる。離れから無理やり双眼を引き剥がして縁側を進むと、背後からねねが着いてきた。

長くは留まれない。

そう自分を無理にでも納得させなければ、踵を返して離れに駆けこみたくなる衝動を振り払うことはできなかった。

信長は面から一切の表情を消して前方を睥睨し、奥歯を緩く噛み合わせる。



手が、ただ熱かった。









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「現金なもんじゃなぁ……」
我ながらと心中で語尾を続け片手で顔を覆う。

秀吉は朝から性懲りもなくこぼし続けていた溜息をまたも唇から漏らして、がっくり両肩を落とした。
上体を起こして開け放たれた障子戸から庭に目をやると、僅かにひやりとした空気の中で白い朝日が帯のように目映く地面へと伸びる。昨日までは常につきまとっていた息苦しさは消え、深呼吸すると新鮮な酸素で肺が満たされた。気持ちのよい朝である。

この清々しい朝、平素と何ら変わりなく普通に目が覚めた。自身でも違和感を覚えつつ、昨日まで起き上がることもままならない高熱にさいなまれていた痩躯が、妙に軽くなっていることに気づいてようやく、はっとした。多量の汗を流した体には筆舌に尽くしがたい渇きとひどい倦怠感が残ってはいたが、脳を内部から打ちつけるような頭痛は綺麗に消え去っており、額に手を当ててみるとてのひらと額に温度差は感じられなかった。治っていると判断するには些少の時間が要って、治ったと確信した次には、主の見舞いですぐに快方した自身の現金さに呆れ、やりきれない羞恥に襲われたのだった。

そういえばと昔のことを思い出して、秀吉は赤くなる目の下を叱咤するみたく顔をしかめた。

初めて主、信長が自分を見舞ってくれた時も、翌日嘘のように熱が引き、治ってしまったのだ。当時小人だった自分の所に信長が見舞いに来たと知られれば、周囲の嫉妬を買い兼ねず、また、主が自分ばかりでなく他の家臣の見舞いにも足を運ばねばならなくなると考え、薬師如来のおかげとうそぶいたことがある。だが、秀吉自身は存在するのかも定かではない神や仏のおかげだなどと、本気で思っている訳ではなかった。

主なのだ。

信長の存在こそ自分にとっては神に等しかった。
その神が自分を見舞えば当然利益とて得られるだろう。例えの話ではあるが、つまりはそういうことになる。否、そういうことにしておきたい、というのが正直な心境だった。

本当は分かっていることだ。理屈など必要ない。
自分が望んだように主が側にいてくれた。
薬も札も飴も、自分の心身を柔らかく慰撫してくれたが、望みがかなうこと程自分を癒してくれるものはない。
諦めて飲みこみ、決して口にはできず、望まないよう自分を戒めてきた他愛なくも実現の困難な願いが、目の前に存在した時の驚きと喜びをどう例えればいいのだろう。


幻かと思った。その手に触れる瞬間まで。
触れて知った。夢でも幻でもない、そこに主がいるのだと。


発熱のせいで涙腺が緩んでいた訳ではない。だが、大きな掌中が自分の手を包みこみ、昔一度だけ感じたあの冷たさを指先に実感して、張り詰めていた気持ちが弾けてしまったのかもしれない。またもや信長の前で泣いてしまった。太い親指で流れ落ちる滴を拭われ、仕草の優しさを知る度、更にこみ上げてくる涙の、体温より熱い温度に胸奥が淡く、それなのにひどく激しく締めつけられた。

自分が喉を潤すものを欲していると敏感に悟った主が与えてくれた水の味わいも、背中を抱く揺るぎない腕と胸の強さも、そして、口づけも、朦朧とする意識の最中で信長の与える感覚だけが鮮やかに自分を抱擁していた。その腕の中で憂慮の一切を忘れ、安堵に浸された痩躯は溶け落ちるようにして眠りに就いていた。
そのまま一度も目覚めることなく朝を迎えた自分の体躯は、平常の体温を取り戻し、微かに空腹さえ訴えている。寝苦しくなって夜中に目を覚ますことも度々あったのだが、不思議と昨夜は熟睡できた。

秀吉はふうと再度溜息をついて口をへの字に曲げる。その表情とは反対に頬の上が些に赤く染まった。まだ発熱しているかのように、手がひどく熱い。

にわかに足音が聞こえてきて反射的に顔を上げた。踊るような陽気さを含む軽い足取りに、秀吉は苦笑して、ねねだと胸中で足音の主を判断する。すると案の定、開放された障子戸から自身の妻であるねねがひょっこりと顔を出した。
先刻、様子を見に来た妻は、自分の具合がよくなったとすぐに判断がついたようで、嬉しそうに相好をほころばせると、朝食を用意するといって一旦主屋へ戻っていたのだった。何故かねねは秀吉の治りの早さには言及せず、驚きもしなかった。毎年五日程度寝込む自分が、一日で全快したことを訝しむ素振りもなかったように見受けられる。どうやら妻は自身が治ることを知っていたのではないかと感じられたが、脳裏に信長の意地悪い笑みがよぎって秀吉は苦笑交じりの溜息をついた。

ねねは秀吉の傍らに膝をつき、はいと手にしていた折敷ごと割粥の入った椀と茶に満たされた湯呑み茶碗を差し出す。椀に入った粥と茶の爽快な香が視覚と鼻孔を刺激して、水しか口にしていなかった体が一斉に激しい空腹を訴え始める。秀吉はねねに、すまんと弱く微笑んで折敷を受け取り、布団越しに自身の膝上へと据えた。
「清正達が頑張って作ってくれたよ」
ねねに言われて、お虎達が?! と目を丸くした秀吉だったが、椀の中の粥を見つめて微苦笑する。割粥は米を小さく引き割って作られるもので、調理に多少手間がかかるものだ。料理が上手いとは言いがたい小姓達が四苦八苦しながら作ってくれたものだと思うと、食べてしまうのは少し勿体ない気がした。

粥をじっと見つめてにまにましていると、ねねが、食べ終わったらお薬だからねとさりげなく釘を刺す。妻の言葉に内心、うっと呻いた秀吉は、く、薬かぁ……と半ばげんなりしながら呟いた。薬はどれもこれも苦いものばかりで、喉を通りやすいといった物ではない。そんな自分の様子を見ていたのか、くすと小さな笑い声がして
「吉法師様から頂いた大切なお薬だから、きちんと飲まないと駄目だよ」
ねっ、お前様と言を継いだねねに両肩を叩かれた。吉法師と聞き秀吉は薬の苦さも忘れて、妻には分からないよう口元を笑みに象る。吉法師が何者であるかを知っているのは、家中で自分と妻だけしかいない。ねねとて吉法師とは言わず、本当の送り主の名前を言いたいのだろうが、今まで辛抱強く送り主が続けてきてくれた配慮と心遣いを、軽率に無駄にはできないと彼女も分かっているのだろう。

吉法師殿が……と一言一句を愛しむのに似た穏やかさで紡いで、秀吉は、そうかぁと深く頷きながら、胸奥から迫り上がる温度に眼窩の奥底が熱く滞るのを感じ、双眸を堅く閉じる。自分の涙腺は発熱のせいで壊れてしまったみたく涙を沸き上がらせて止まない。あーいかんいかんと胸中で喚いて、押し寄せる涙をなんとか押さえこんだ秀吉に、ねねが
「それとこれ」
と言って折敷に小さな巾着袋を据えた。中身の判別がつかないので、ねねの顔を見て言葉なく問う。すると妻は、大きな双眸に朗らかな光を湛えて目だけで開けることを促したので、口を結ぶ紐を解いて巾着の中身を覗きこんだ。
途端に、秀吉は笑みを浮かべてねねを熟視した。

「金平糖かぁ!」

意外な贈り物に、妻と金平糖を交互に眺めてついはしゃいでしまう。
この小さな星の形をした砂糖菓子は、製造工程に手間がかかる上、高価な砂糖を多量に使うので滅多なことでは口にできない菓子である。信長自身が西洋の菓子を基にして作ることを指示した菓子は、主が食べている所を何度か見たことがある程度で、秀吉自身も味わったことはない。知っているのは飴や羊羹などより甘いということだけだった。
「信長様からだよ。お前様に食べさせてやれって」
布団から飛び上がって喜びたい気持ちをぐっと堪えて、信長様が! と歓声を上げる。声高に響いた秀吉の声に、ねねが我慢できないといった風情で吹き出して笑い始めた。秀吉は、巾着ごと金平糖を丁重に両手へ包み、首を傾げて腹を押さえる妻を不思議そうに眺める。
「なんで笑うんじゃ?」
「だって、お前様がとても嬉しそうだから」
笑いながら返されて顔が熱くなった。秀吉は無理に渋面を作ったが、妻には既に自分の喜悦を見透かされてしまい、偽装など無意味でしかない。言い訳すらもできなかった。実際に嬉しくて仕方がない。主の与えてくれた歓喜を意地っぱりな嘘でなかったことにはしたくなかった。しゃーないじゃろ……と紅潮した顔で妻を睨んで小声で言うと、ねねはくすくすと笑いながら、また後で来るよと言い残して踵を返す。赤い顔を片手で覆い妻の後ろ姿を横目で見送りながら、秀吉は辛うじて、おうと応じたが、返事が届いているのかいないのかは分からなかった。

あーもーと心中で叫んで、紅潮している面から熱を取り去るようにてのひらで頬をこする。無論、摩擦で余計に熱くなるばかりで効果はなかったが。

「しゃーないわ……」

こればかりは。

ふっと息をついて微苦笑を浮かべ、秀吉は手の中にある巾着に視線を落とした。

手にした金平糖を掲げて、それに一礼する。

そして、砂糖菓子の入った巾着を折敷に戻して、開いた口から些少震える指先で一粒だけ金平糖をつまみ上げ、てのひらに転がしてみる。しばらく、掌中でころころと踊る星形を熟視し、不意に手を止めて面をほころばせた。

甘いものが欲しい。
高熱に苦しみながらそう、ずっとすがるみたく願っていた。
今はもう、体調もよく、主が来てくれたおかげで心も晴れ晴れとしている。


しかし、思うのだ。甘いものが欲しいと、無性に。


ゆっくりと、てのひらに乗せたそれを口元に運ぶ。ころりと転げて唇に触れた金平糖を、躊躇いがちに口に含み、舌先で砂糖の星を踊らせる。

甘い。

とても甘くて、口の中にやんわりと広がりゆく甘みに胸が詰まった。

昨日枕元で幻かと疑った主の姿を思い出し、秀吉は信長の体温を残す自身の手を手で包みこむ。ぎこちなさを拭い切れない、しかし、ひどく優しい手の動きと低い声音。骨張った太い指先に触れられた箇所が急に熱くなったように感じられ、鼻の奥がつんと痛くなった。眼窩の奥底から迫り上がる水で視界が微かに曇り、押しとどめようと唇を噛んでも視野は益々水の膜で歪んでゆく。

「甘い……」

そう独白し、白い星をもう一つつまみ上げて、口づけるように唇に含み口内へ転がす。再び舌の上に甘味が満ち、秀吉は、甘いな……と呟いて瞼を固く閉じた。こみ上げた温かい滴は閉じた瞼から滲み出て睫を濡らす。目頭に涙がたまってゆくのが分かったが、それを拭うこともせず、秀吉は金平糖をもう一つ口に放った。
星に柔らかく歯を立てると、軽い音とともに一層甘さが口内に満ちてゆく。




こんなに甘い、こんなにも愛おしい甘さを、味わったことはかつて、一度だけしか。




疲弊した痩躯に優しく染み渡る甘さが、触れた手の冷たさが、孤独を払いのけ、自分を真実の苦痛から救い出してくれる。


しかし、何よりもこの身を癒す良薬は、ただただ、比類なく。








離れても傍らにあっても昔と変わることなく注がれる、あなたの愛情なのだと知っている。