泥で汚れた服で取り次ぎの間に上がることは非礼と考え、結局本丸へ行くことはせず天守から些に離れた蔵屋敷へ足を向けた秀吉は、屋敷の縁側へ回り人を探した。

主と会えないとはいえ、本来主君の無聊を癒すために花を持ってきたのだ。紫陽花を届けなければ本末転倒も甚だしい。しかし、自分の汚れた姿では拝謁を請うても取り次ぎの担当官に、服を着替えてから再度来るようにとたしなめられてしまうだろう。せめて自分の代わりに主へ花を届けてくれる者はいないか、秀吉は懸命に人の姿を探した。

外から屋敷内を覗きこむだけでは中々人影を発見することはできず、焦れったくなって上がってしまおうかと考えたものの自身の有り様を見て思い直す。うろうろと蔵屋敷の縁側付近を右往左往しながら、秀吉は紫陽花と屋敷を交互に眺めて眉をひそめた。早く水に浸けなければ花が傷んでしまう。かといって、主君の居城で大声を張り上げて人を呼ぶ訳にもいかない。困ったのう……と思わず心底からの呟きがこぼれて、秀吉は縁側から更に奥にある庭園の方へと足を進めた。

全体的に小高い場所に建築された安土城は、天守閣を始めとする蔵屋敷や二の丸、三の丸が琵琶湖を眼下に臨む高さに配されており、秀吉のいる蔵屋敷の庭からも、降り止まない雨にうっすらと霞みがかる湖の情景を、生い茂る樹木の合間からはっきりと眺めることができる。着物を脱ぎ捨てるか水を浴びるかしなければ、終始体躯にまとわりつく暑さから逃れることはできないが、青い水面が雨に煙りほんのりと白く霞む様は視覚から体に涼味を与え、心なしかこの庭だけ気温が些に低くなったように感じられて心地よかった。

秀吉はしばし琵琶湖を凝見して、身内にこもる熱とともにふっと溜息をつく。体の表面だけが気温と同じく微熱にも似た落ち着かない温度を蓄えていた。しかし、心は、乾いた心は、氷の張った水たまりのように底冷えする冷たさをはらんで先刻から延々と深い痛みを訴えている。泥も砂利も底に沈殿することなく、汚濁をたたえたままに凍てついた心奥に、痩躯の芯が小さく震えていた。せめて雨が止めばと思い至って、苦い失笑交じりに些少首を振る。胸に滞る痛みは雨のせいでも、まして誰のせいでもない。堪えられるものを堪えようとしない自分の弱さが、些細な悲しさや寂しさを大袈裟に喚き散らしているだけのことに過ぎない。他人のせいにして自分を正当化するぐらいらば、まだしも自分を責めた方がましだった。だからこそ、どんなに虐げられても人を憎むことだけはしなかった。

だが、すべてを自分の身一つに背負いこむことなど不可能なのだと、主と出会い知ってしまったその日から、苦痛という泥濘を押し流す温かい雨に打たれる安堵を常に欲している。圧倒的な力強さで泥の底から自分を引き上げ、身を凍えさせる泥を洗い流す優しい雨水の心地よさを。

湖を茫然と見つめていると脳裏に信長の顔が過った。会いたいと思った瞬間、自分の甘えを戒めるように泥の染みた片目が痛みを発した。花を包んだ藁をぐっと抱き寄せ、秀吉は、こんなんは止めじゃと堂々巡りを続ける自分の思考を無理やり断ち切る。

当初の目的通り、琵琶湖に背を向け庭園から屋敷を覗きこんで人を探した。すると、注意深く確かめるまでもなく、庭園に面した部屋の真ん中で寝そべっている男の後ろ姿を目にとらえた。秀吉は少し驚いて、横臥したままぴくりとも動かない巨躯を凝視し心中で唸る。一見した様子から察するに男は昼寝の真っ最中らしく、身につけているものも濃紺の袴と浅葱の小袖という至って質素なもので、下位の近習ではないかと予測がついた。背中だけでも判然と分かる程に体格は非常によく、小姓というよりも武将に近しい容貌なので取り次ぎなどの事務処理を担当するには少々勿体ない恵まれた体躯である。下位の近習がこのような場所で、しかも堂々と仕事もせずに惰眠を貪っているという事態は正直秀吉にとっても驚きだった。

信長は怠惰を殊の外嫌う。安土に詰める侍女や近習は主の気性を知っているからこそ、日々職務に対して貪欲なまでに熱心なのだ。城内に張り詰める緊張感はそのまま彼らの強い緊張でもあった。僅かでも怠惰を見つけ出せば信長は怒り、自ら刀を手にして処断するだろう。信長様が怖くないんじゃろかと小首を傾げ、眼前で寝転げている男の巨体を呑気に凝視していた秀吉は周囲をきょろきょろと見回し、他に誰かいないか確かめた。だが、人の姿は目の前で横臥している男しかおらず気配すらもない。秀吉は半ば憮然と吐息をして薄い両肩を落とし、しゃーないっと自分に言い聞かせて縁側に歩み寄ると、もしと何者かもしれない男の背に声をかけた。
「お頼みしたいことがございます。よろしゅうございますかな」
近習ではないかと予想はできるが、何しろ後ろ姿だけでは正体が分からないので丁重な口調で言葉を投げかけてみると、男は気づいたのか微かに顔を傾けたがこちらを見ることはしなかった。
「頼みとは?」
尋ね返す男の低音が鼓膜を快く撫でる。ええ声しとるなぁなどと妙な部分に感心して、男の横柄な言葉使いに眉をひそめるのも忘れてしまっていた。秀吉は、はあと苦笑交じりに応じてから
「誠、瑣末なことにござるがこの花を上様にお届け頂けないかと」
お願いできんでしょうかと紫陽花を見つめて語尾を続けると、言下に
「己が届ければよかろう」
と冷たい返事があった。そりゃ、ごもっともなんじゃが……と心中で呻いた秀吉は自身の服を眺めてから嘆息をついた。
「いえ……生憎と服が汚れてしまいまして、このような姿ではお目通りかないますまい」
はははと気のない笑い声を上げて、何卒と言葉を続けた自分に暫時黙りこくっていた男は、おもむろに上体を起こすと、巨躯に似合わない機敏な所作で立ち上がった。男の挙止動作には一切の無駄がなく、素早いながらも流れるような優雅さを感じさせる一連の動きに一瞬見惚れていた秀吉は、不意に既視感を覚えて頭を捻った。今、男が見せた立ち居振る舞いを自分はどこかで垣間見たことがある気がするのだ。気がするというよりは知っているという確かさで覚えのあるものだった。

ふと、嫌な予感がして秀吉は顔を引きつらせる。単なる近習とも小姓とも思えない、雅やかな雰囲気の中に豪快さを含んだ所作は、とある一人の人物を連想させて止まなかった。生まれついて人の上に立つべき家柄と血筋を有しながら、高貴を凌駕する大胆な粗雑を拭えない動きは、随分と昔から自分が知っているはずのものではなかっただろうか。いやっ……まさかと自身の想像にかぶりを振った秀吉に構うことなく、男は振り返ってよく見知った端麗な面に底意地の悪い笑みを浮かべこちらを瞥見した。
「へぇ?!」
男の顔を目にし、悲鳴にも近しい素っ頓狂な声を上げて一歩後ずさった秀吉は、ぱくぱくと金魚のように口を開閉させる。それでも抱えていた紫陽花を落とさずに済んだのは大袈裟ではなく奇跡に近しかった。

日中は天守や本丸で拝謁を求める来客と対面しているはずの人物が、蔵屋敷で一人寝そべっているなどと誰に予測ができるというのだろうか。当然秀吉とて例外ではない。驚愕というよりもむしろ気が動転していた。生来丸くて大きな双眸を目一杯見開き、やっとの思いで息をついた秀吉は震える唇から


「の、信長様ぁっ?!」
そう、男の名前を叫んだ。


腕を組んだ男は、主信長は、鋭利な双眼を細めて、目を白黒させ凝立していることしかできない秀吉の有り様を眺め回し、ほうと片眉を吊り上げて頷く。
「確かに見事な風体よな」
くくと喉元で短く笑い、秀吉自身が言った通り泥をかぶって汚れた姿を見事などと揶揄する言い様は正に主のそれであった。あまりにも予想外の対面に、最初は幻を見ているのかとも疑ったが、幻覚などとは比較にもならない圧倒的な存在感は、まごうことなく自身の目の前に主がいるということを示していた。
「よもやこちらにおわすとは存じませんで……っご無礼を!」
慌てて膝をつこうとした秀吉を片手で、よいと制した信長は、鷹揚に縁側まで歩いてくると結露を意に介する風情もなく黒々とした板の上にあぐらかいた。
「して、いかがした」
帯から扇子を抜き取り、半ば茫然とする自分の頬を軽く打った主を傘とともに見上げて、へ? と間の抜けた声を上げた秀吉は、痛む片目をしきりとしばたたかせながらも信長と視線を合わせる。
「さような様」
重ねて問うた主は扇子で秀吉の顎を持ち上げ、泥に汚れた箇所を一瞥してから睨む強さで自分を見つめる。秀吉は主の面へ微かに滲んだ険しさを見抜いて、即座に苦笑いを浮かべ頭をかいた。
「あ、いえ、転んでしまいましてですね。いやまったく不注意で」
あはははと陽気に声を上げて笑ったが、主は平素のように口角を歪めることもしない。それもそのはずだろう。咄嗟に嘘はついたが、注意深い人間ならば自分が転倒したために泥まみれになったのではないということがすぐに分かるはずだからだ。転倒すれば前、もしくは後ろに倒れ、汚れる部分は胸元、背中などに集中する。横から突き飛ばされるか、何かと衝突するかしない限り、自然に横転するということは考えにくく顔の側面だけが汚れるはずもない。加えて、顔の半分と肩口のみという狭い領域だけが泥をかぶっているという様は、転んだと言うには非常に違和感があった。秀吉は自身でも内心、しまったと思ったが既に遅い。主は自分の嘘を見抜いて整った面に微小の不機嫌を漂わせていた。

本当は嘘をつくべきではないのだ。平常から信長に対して嘘や偽りを口にしたことのない自分が、慣れもしない虚偽を上手く扱える訳がない。だが、主に勝家のことを話せば告げ口をしたと見なされ、卑しい奴と殊更に男から罵倒されることになる。庇いたい訳ではなかったが、告げ口めいた真似をすることは己の自尊が許さず、秀吉は紫陽花をくるんだ藁に顔を埋めて主の鋭い凝視にひたすら耐えた。

おもむろに信長の手が伸びてきて秀吉の襟足をわしづかみにする。そのまま上へ持ち上げられ、些に浮いた自身の足元に、ひえっと驚きの声を上げた。うろたえた弾みで傘が手からこぼれ落ち軽い音を立てて縁石の上に転がる。泥まみれになっていた草履も両の爪先からぽろりと落ち、屋根からしたたる雨水が作った地面の窪みにはまって水浸しになってしまった。上様っ! と呼んではみたものの、今手を離されれば今度は尻まで泥に汚れてしまうだろう。首をつかまれた子猫のように、諦めて紫陽花を抱く腕以外はだらりと下げた秀吉の様を瞥見した主が薄く口元を歪めた。
「誰かある」
顧みて主が太くよく通るで言い放つ。寸分の間も置かずに一人の青年が現れ、お呼びでしょうかと膝をついて叩頭した。涼しげな美貌に少年の幼さを残す青年を秀吉もまたよく見知っており、信長が重用する小姓の中でも特に主への忠誠心が強く、武将としても事務官としても有能な森蘭丸、彼の姿を見て些少ほっとしてしまった。平常は大人以上の冷徹さを見せる彼も、秀吉の気安さに対しては年相応の可愛げを極自然に見せる。どうやら懐かれているらしいことは何とはなしに感じていたが、おかげで主が不在の折でも蘭丸とは信長の話や、自身の赴いた戦の話などで会話が盛り上がることもしばしばだった。やって来たのが蘭丸ならば、少なくとも自分は粗雑に扱われはしないという安心感と、主が何かしらの悪戯をしかけても彼がさりげなく諌めてくれるだろうという期待も持てる。主の手からぶら下がったまま、がくりと頭を落とした秀吉は心中で、助かった……と呟いてしまった。
「お蘭か」
「はい」
信長が蘭丸の姿を認めると、青年は主の言葉が終わってほんの僅かな間の後に高い声音で応答する。主の声音を邪魔せず、尚且つ待たせず、青年の絶妙な間の取り方には秀吉も、さすがじゃなと内心唸ってしまった。
面を上げよと命じられ、蘭丸が顔を上げると必然的に秀吉と目が合った。小柄とはいえ、主につかまれて猫の子みたく扱われている自分に蘭丸の目が見開かれ、整った長い眉がまるで笑いを拒むかのように些少しかめられた。主は口角を吊り上げ、無言のまま秀吉をずいっと蘭丸に向かって差し出す。蘭丸もまた秀吉の風体を見据え、ああと納得して小さく頷き、承知致しましたと頭を下げた。
唐突に畳の上へと降ろされ尻餅をついた秀吉は、あいてっと大仰に声を上げる。間髪入れずに脳天を主の扇子が軽く打った。
「秀吉」
立ち上がりかけた途中で呼ばれあたふたしつつ、はっはいと答え叩頭すると、くっという短い笑いが頭上へと降ってきて、そろりと目だけで主を見上げる。何分、信長は恐ろしく長身なので目だけでは主の足元しか視野に収まらないが、素早く踵を返した動作だけは判然と見てとれた。
「長くは待たぬ」
「へ?」
予測もしていなかった主の言葉に思わず顔を跳ね上げた。尋ね返す間も与えず、信長は悠々と別室に姿を消してしまい、秀吉は頭の上に疑問符を浮かべたまま唖然としていることしかできなかった。なんのこっちゃ……? と眉宇を濁して首を傾げた途端、蘭丸がすっと立ち上がった。
「秀吉様、こちらへ」
奥座敷をてのひらで示して微笑んだ青年に、えっと声を上げ顔をしかめる。だが、ついさっきまで繰り広げられていた主と蘭丸のやりとりを思い出し、次第に自身の状況を把握して、即座にかぶりを振った。要するに主は、まずは衣服を正させ泥を拭ぐわせてから改めて秀吉と会うことにしたらしい。信長は贈呈品を受け取っただけで自分を帰らせるつもりなど毛頭ないのだ。蘭丸も無論主の意を汲んでいるはずだった。
青年は几帳面とも思える丁寧な所作で、畳の上に屈みこんだ秀吉に歩み寄り、参りましょうと手を差し伸べて柔らかく促す。しかし、長く留まるつもりのなかった秀吉は紫陽花を置いて、両手を顔の前で振り回し、いやいやいや! と喚いて青年の手を拒んだ。
「ちょ、ちょっとお待ち下され。これを上様にお渡し頂けりゃあ、わしはええんですわ」
紫陽花を指さして力説するも、蘭丸はにこりと笑っただけで秀吉の動揺をあっさりと受け流してしまう。
「いえ、信長様の御意にございますから」
主に命じられた以上、青年とて退くことはできないのだろう、態度は柔軟だが言葉にこもる強さには決して辞退を許さない迫力があった。
「すぐに帰りますわ、お構いなく……!」
「そういう訳には参りません。着替えを用意致しますから、さあ、こちらへ」
風邪を召されますと言い募った蘭丸に、あはははと苦笑いで返した秀吉は
「大丈夫ですって」
こんくらいと自身の薄い胸板を軽く叩いた。が、途端、鼻がむずがゆくなり大きなくしゃみが口をついて出る。ほらっと青年が戒めるみたく端的に言って、素早く懐紙を差し出した。
「秀吉様」
少し拗ねた子供のように溜息を交じえて自分の名前を読んだ蘭丸に、とうとう秀吉は根負けしてしまい、鼻をすすって懐紙を受け取ってから、すんません……と項垂れてしまった。青年が用いた押しと引きの絶妙な使い分けに敗北したとも言える。最初は主の命だと言い募っておきながら、最後の最後に拗ねてみせるなど、彼の容貌と年齢であればこそ成し得る交渉の技だろう。したたかなのか無意識なのか、内心舌を巻いて招かれるまま蘭丸の後についてゆく。紫陽花は無論忘れず腕に抱いていた。

奥座敷にたどり着くと、青年は他の小姓達にてきぱきと指示を下し、彼自身は秀吉の汚れた上衣を脱がしてゆく。着物に跳ねた泥は一見派手に見えたが、肌に浸透してきたのは濁った水だけで、実際は顔の半分だけが汚れているだけだった。真新しい小袖と袴、水を張った桶と手拭が小姓達の手で次々と運びこまれ、彼らの働きぶりを目で追いかけているうちに、気がつくと濡れた手拭で顔の泥をさらりと払拭された。くすぐったい程の優しさで自分の顔から泥を拭き取る蘭丸に苦笑し、秀吉は桶をちらりと一瞥する。青年は自分の視線の意味を察し、華やかな面に微苦笑を浮かべると秀吉の足元に桶を差し出した。
「かたじけのう」
礼を口にして桶の傍らにあぐらをかいた秀吉は、両手に水をすくって自身の顔へとかける。上体を前に折り桶の水で幾度か顔を洗うと泥の感触はすっかり取れ、よく洗ったおかげで目の痛みも大分和らいだ。すかさず蘭丸が手拭を差し出してくれたので、会釈して手に取ると、その手拭は先程とは違い乾いたものだった。笑顔で頭を下げ、受け取った手拭で乱雑に水滴を拭き取った秀吉の腕に、ひやりとした物体が触れて反射的にびくりと痩躯を引きつらせる。蘭丸が濡れた方の手拭で体を拭ってくれているのだということはすぐに分かり、青年の手に身を預けて両手足を床の上に投げ出した。

ほんの微かに居残っていた、濁水のぬめついた感触が汗とともに綺麗に拭き取られてゆく。泥の跳ねた足袋に気づいてそれを爪先から取り上げ、袴の裾に散った泥の染みを擦り合わせて懸命に落とそうとしたが無駄だった。これらの泥は自分がぬかるんだ道を歩いてきたために跳ね上がったものなので止むを得ない汚れでもある。むきになって布地を擦り合わせていた秀吉の様子に、青年がくすりと小さく笑って
「体を拭きましたら袴もお預かりします」
とさりげなく、秀吉自身がわざわざ泥を落とす必要はないと気を回してくれた。蘭丸に気を使わせてしまったことに些少申し訳なくなって、あー本当に申し訳ないっすと首をすくめると、青年は柔らかく笑って秀吉の首や肩に手拭を滑らせる。

汗ばんだ皮膚の上を、ひんやりとした温度が幾度も通り過ぎていった。背中、脇腹、胸元まで、上衣を脱いだ上半身に隈なく触れる心地よい冷たさは、不快な気温と同化する肌の熱を慰め、通常ならば身内に滞留する熱気を少なからず解消してくれるはずだった。しかし、熱よりもこごえのこびりついた胸奥は、体の表層から浸透してくる冷たさに呼応し静かに体温を葬り去ってゆく。唯一、主の手が触れた襟足にだけ、ちりちりと焦げるような熱度が保たれていた。秀吉は眉をひそめて唇を緩く噛み、そっと自身の襟足を指先で撫でる。指先にまで残された体温が染みて痛い程にじんと熱い。胸を柔らかく締めつけるその熱さに喉の奥が震えた。
この熱は、この温度は、乾いて凍てついた自分の心奥を瞬く間に潤し暖めてくれる。何故主なのかと考えたことはなかった。二つの体で一つの心を共有するかのように、感覚として、感触として、ただ理解するという次元を超越する深層の最中で互いを知り、分かり受け入れる、主と自分の繋がりは到底他人が代わることのできるものではない。


どのような虐げすらも笑みでかわす打たれ強さの裏で、自分が少しづつ傷ついていることなど誰にも分かりはしないだろう、信長以外には。


主には何も隠せない。
自分が幼い頃から抱えてきた澱のような辛苦も、上澄みで取り繕う笑顔の裏に潜んだ涙も、信長には最も見られてはならない脆い自分を瞬時に見抜かれ悟られてしまう。心配をかけたくないということもあった。だが、それ以上に主の前では常に笑っていたいのだ。

多くの他人が主を無闇に高みへとおき、敬う体裁を取りながら一線を画し、災いを被ることを恐れて近づかない。心の底から主に寄り添いたいと思っているのは自分だけかもしれないと懸念する程に、信長の周囲には主を畏怖する人間はいても、敬愛する者は皆無に等しかった。自分を冷たくあしらう他人を敢えて受け入れた秀吉とは逆に、主は他人に期待することを一切止めてしまった。人を道具という価値観でしか測ることをしない絶対的な非情は、主に孤独を強要した人々が生み出した罪だと言っても過言ではない。だからこそ、自分は主の孤独に踏みこみたかった。道具として扱われてもいい、仕事以外で期待などされなくともいい、信長が独りでなくなるのなら、覆しようのない非情を忘れられるのなら、側にいる時は笑顔でいたかった。おこがましいと叱咤されるかもしれないが、僅かでも主の支えになりたかった。

だが、その自分が今、いつものように陽気に振る舞うことも、ただ笑うことすらもできず、降る雨の湿度に侵されて憂いに沈みかけている。ぶるりと、体躯がにわかに震えを発した。寒い。気温はこんなにも蒸して暑いというのに、寒い。笑いたいのに笑えない。会いたいと願ってここまでやってきたはずなにのに、今は主とどのような顔をして話せばよいのか分からなかった。

知らず知らず項垂れていた秀吉の背後から、大丈夫ですか……? と気遣うように蘭丸が声をかけてくる。何がと付け加えることをしなかった気の利いた青年の問いかけに、秀吉は辛うじて笑みを作り、すんません、うとうとしとりましたと肩をすくめて頭をかいた。小さく頷いて応じた青年は手拭を桶の縁にかけると、新しい小袖と袴、そして、帯と足袋を手に取る。秀吉も気づいて立ち上がり、帯を解いて袴を脱ぐ。下帯のみの姿となった自分の肩に素早く真新しい小袖が着せられ、見る間に衣服が整えられていった。手際のよさに感心しながらも佇立しているだけだと落ち着かず、間断なく続く衣擦れの音を耳に、そういやぁと首を傾げる。
「上様はなんでまた、あちらに?」
「天守がひどく暑くなるものですから、こちらで涼みになっていらしたのです」
簡潔に答えた青年に、なるほどと頷いて、きつくもなく緩くもない適度な力で締められてゆく帯に、ほうと吐息する。
熱い空気は上方へと溜まりやすく、屋内においても勿論例外はない。従来の城郭とは違い、天守閣の中枢に広々とした吹き抜けを擁する構造をした安土城の天守は、吹きこむ風が建物の全体に行き渡り、空気がよどまないという点においては快適さを保つが、今日のように無風な上、梅雨という気候の場合はこもった熱気が天守の最上階へ一気に溜まってしまい、上の階にゆく程暑さが増す。平常、日中は公務のため、拝謁を求めて訪問してくる豪族や商人、貴族などと面会しなければならない信長だが、訪問客が少ない場合、或いは会うまでもないと判断した場合は天守で休養をとっていることも多い。だが、いかに主といえども、この蒸し暑さでは殊更に気温の増す天守閣で昼寝を楽しむことはできないだろう。とはいえ、雨の日でも訪問客が途絶えることは、そうそうない。秀吉はいまだ分かり兼ねて、そつなく支度を終えてゆく青年を肩越しに顧みた。
「本日は客人のとぶらいがございませなんだか」
尋ねると蘭丸が些に頬を膨らませ、手を休めずに
「つまらぬ奴ばかり来る、木像と談話するがましぞ、などと申されて本日は来客をすべて断られてしまいました」
そう言って眉を微かに吊り上げる。
「あー……上様らしいっちゅうかなんちゅうか」
話がつまらない相手に対して、何もしゃべらない木像と話す方が楽しいなどと言い捨てる主の豪胆さがあまりにも想像にやすく、くすくすと苦笑いをこぼした秀吉に支度を終えて立ち上がった青年が微笑んだ。
「ですが、秀吉様が参られたとお伝えすれば、信長様も会うとおっしゃられたでしょう。秀吉様が贈り物を残して帰ってしまわれず、よかったです」
秀吉が信長と主従以上に親密であることは蘭丸もよく知っていることだ。無論肉体的な関係があるということまでは知らずにいるのだろうが、すべての客人を断り天守で休んでいても、秀吉が来れば面会を許す程には、主が自分を特別視していることは分かっているらしく、悪意も他意もないと理解してはいても、青年の言葉に内心心臓が跳ね上がる。秀吉は、はははと曖昧な笑みで蘭丸の華やかな笑顔に応じると、紫陽花を取り上げ藁を解いて花を青年に手渡す。色濃い紫の大輪に蘭丸が、わあと感嘆の声を上げて面をほころばせた。
「見事な紫陽花ですね」
「庭で咲きましたんで、持って参ったんですわ」
上様にと語尾を添えると青年は紫陽花の茎を優しく抱いて
「信長様もきっと喜ばれます」
と微笑んで熱心に花を眺める。どうやら蘭丸もまた、稀な彩りの紫陽花を気に入ったらしく、白い頬をほんの微かに紅潮させていた。秀吉は口内で小さく笑い、蘭丸殿と青年を呼び
「後程蘭丸殿にもお届けしますで」
片目をつぶってにっと口元を吊り上げると、青年が嬉しそうに、本当ですか! と珍しく興奮した様子で声を上げた。
「是非お願いします」
喜々として大きく頷いた蘭丸に、承知承知と朗らかな声音で二度返事をして秀吉も頷く。
「お預かりします」
丁重に会釈した青年は紫陽花を控えていた小姓の手に渡して、秀吉に向き直った。紫陽花を受け取った小姓は素早く退室して奥へと下がる。恐らく、早速花を生けて別室で秀吉を待っている信長に献じるのだろう、なんとも見事な連携である。小姓達の仕事ぶりに心中で、ほーと感心していた秀吉を見つめて青年が卒然、ああと溜息をついた。何かと思い、蘭丸に目線だけで問うと
「秀吉様、片目が充血しておられますよ」
そう言った美麗な面がひそめられてゆく。言われて、あーと泥をかぶった方の目を手で軽く押さえた秀吉は、心配そうに自分を見る青年に苦笑した。
「こんなん、ほっときゃ治りますわ。ご心配なく」
「いけません」
片手を振って平気だという意思表示をした秀吉に、きっぱりと首を振った蘭丸は身をひるがえして駆け出していく。一旦立ち止まって振り返った青年は叱るように眉を吊り上げて秀吉を軽く睨んだ。
「すぐに目薬を用意致します。少々お待ち下さい」
蘭丸は言ってさっと部屋を出ていってしまう。

釘を刺さなければ秀吉がそのまま信長に会いにいってしまうと察したらしい、青年の鋭さにひとさし指で頬をかいて、見抜かれとるなぁ……と心中で思わず苦笑いをこぼした。