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「羽柴秀吉、まかりこしました」
縁側から回りこんで主のいる部屋へやってきた秀吉は板の上に両膝をつき、障子戸の手前に控え努めて明るい調子で口上して姿勢をただす。真新しい布地のざらついた感触が肌にくすぐったく、些少落ち着かない気分ではあったが、泥をかぶったままでいるよりは心も僅かばかり晴れた気がした。目薬を差した片目は瞼を閉じると薬液が眦に滲んで涙にも見え、慌ててこぼれそうになったそれを指の背で払拭する。
蘭丸が目薬を持ってくるまで結局は待ち続けることになってしまった秀吉は、微かに眉をひそめて障子の薄い紙越しに室内にいるであろう主の様子を探った。待たされることを嫌う主のこと、待たせる程に機嫌は悪くなってゆくはずなのだ。止むを得なかったとはいえ、主が「長くは待たぬ」と言い残して部屋を移動してから一刻程度は経っている。主の機嫌を損ねれば例え秀吉でも謁することを拒絶されてしまい兼ねない。
しかし、よくよく考えれば紫陽花は既に小姓達に渡してある。主と会わずとも目的は果たしているのだ。敢えて対面せずとも支障はないはずだった。
会わずとも差し支えはない。目的は果たしたのだから、会わなくとも。
平素ならばたやすく自分自身を頷かせる己の正論に秀吉は柔らかく唇に歯を立てる。
偶然とはいえ主と対面した。服が汚れてしまったせいで一度は会えないと諦めた信長に会えるかもしれない機会を得たというのに、このまま帰ることになってしまう事態を心が拒んでいた。膝に置いた両手に袴の布地を握りこんで、身内に染みついた寒さが次第に増してゆく痛い感覚を必死に堪える。
一度重く垂れこめた雨雲は一向に晴れる気配もなく、氷のように地面を突き刺す雨が自分の胸奥で無慈悲に降り続いていた。いっそ自分のついた嘘を責めてくれてもいい。それでも会いたいと、話をしたいと、柄にもなくひどい弱気に陥ってしまうのは、自分を虐げて止まない凍える雨のせいだ。会いたいと、今日はそればかりを思う。主の顔を見る前まで会わずともいいと諦めをつけたはずの気持ちは、信長とまみえた瞬間、帰りたくない、会いたいと強情なまでの素直さで自分を我がままにさせる。
祈るような気持ちで主の声を待っていた耳に、来よという簡潔な命が触れ、秀吉は弾かれたように顔を上げて強ばっていた表情をほっと緩めた。はっと端的に応じて膝を進めると部屋の正面に達して畳と板の境目で正座する。顔を上げ、上座にいるであろう主の姿を確認しようとして秀吉は目を丸くした。
上座にいるとばかり思っていた信長は、先程と同じく部屋の真ん中で横臥し肘を畳の上に据え、立てた腕に頭を預けてこちらに無防備な背中を向けている。片側の眉を跳ね上げて主の非常に砕けた体勢を凝視した秀吉は、あのうと困惑気味に漏らしたが、目線を真正面にあった床の間に映して、あ……と微かに驚きの声を発した。
床の間には、白練の上薬に葡萄色の線が斜めに走る円柱型の花差しがあり、花差しには秀吉が持ってきた紫色の紫陽花が生けられていた。つい先刻、或いは今し方だろうか、深紫の花弁は透明な滴を瑞々しくまとい、生けられたばかりであることが分かる。花びらの上で揺れる丸い水滴の微かな輝きは、離れていても判然と瞳孔に焼きつき、今にもしたたり落ちそうな水の潤いが、むしろ爽やかな程の清艶で花を彩っていた。薄暗い室内にあっても花の周囲だけが淡く紫紺の光を放っているみたく、鮮烈に双眸へと飛びこんでくる紫陽花の姿態に秀吉は口元を些少緩める。信長が上座に着かず尚も寝そべっている理由が知れて、こそばゆい喜びがゆるりと胸を満たしていった。
主は花を眺めているのだ。飽きもせずに自分の献じた紫陽花を先程から、恐らくずっと。お気に召したのだなと心中で安堵すると同時に、花が主の無聊を癒す慰めになったことが嬉しかった。それだけでも来てよかったと思う。自分の一風変わった贈り物を主が気に入ってくれたのならば、少なくとも泥をかぶった甲斐があったというものではないか。いまだに痛む目を軽く片手で押さえ、秀吉は声なく苦笑を漏らして主の背と紫陽花を見つめ続けた。不意に
「近う」
と横になっていた信長が片手を上げて、言葉だけでなく仕草でも来いと命じる。秀吉は、はいと応答して申し訳程度に膝を進めた。しかし、主は首を傾けて自分を一瞥すると、切れ長の眉をしかめ、来よと更に命じるので困惑してしまう。主君が上座に着いていない以上、下手に接近はできない。加えて、主は部屋の真ん中で寝そべっているので下座の適切な距離を測り兼ねていたこともあり、秀吉は戸惑って、あ、いえとかぶりを振った。だが、信長は眉間に深々と皺を刻み、足を持ち上げ主自身の足元へ踵を落として派手に畳を打ち鳴らしてから
「ここだ」
そう簡潔極まる命令を下して再び紫陽花に向き直ってしまった。ここだとおっしゃられましてもですね……とついつい呟いて躊躇していた秀吉だったが、これ以上しどろもどろと迷っていれば間違いなく、早くしろと怒号が飛ぶ。礼儀作法としては甚だ非礼にあたるため、主命とはいえども気が引けたが、渋々立ち上がって指示された場所から少し離れた箇所で正座した。横目で信長を瞥見すると鋭利な双眼が無言で自分を睨んでいることが分かって、気のせいだと知りつつも肌がちくちくと痛むようでいたたまれない。秀吉は二度程主をちらりと見てから、わざとらしく咳払いをして座ったまま横にずれ、最初に指定された場所へようやく到達した。
途端、主が足の甲で秀吉の脇腹を引き寄せ、勢いのまま横ざまに上体を倒した痩躯はたちまちのうちに頑健な腕に攫われ、完全に体勢を崩して畳の上へとうつ伏せに転がされる。声を上げる間もなく、畳の上に倒れこんだ秀吉は己の身に何事が起きたのかを分かり兼ねて、反射的に顔を上げ起き上がろうとした。が、すかさず主の手が秀吉の頭をつかみ、軽くではあれど畳に押しつけられて身動きが取れなくなる。新しいいぐさの匂いに、ようやくはっとして、秀吉は四肢をばたつかせ、上様っ! と非難の叫びを上げたが手は離れない。お離し下されぇ! と畳を平手で叩きながら泣き叫んだ秀吉の頭上に
「おとなしゅうせい」
笑いを含んだ低音が振ってきて、ううっと呻きながらも取り敢えずはくたりと全身を脱力させた。ふんと鼻で笑われた後に手が離れ、圧力の消えた頭を上げて視線をさまよわすと目と鼻の先には、笑みに歪んだ信長の整った顔がある。驚いて思わず跳ね起きようとした秀吉の体が見透かされたように堅い腕に抱えこまれ、腹の下に入りこんだ手に引っ張られて、主と同じ、横向きに寝そべり紫陽花を眺める体勢に据えられる。唖然としていると更に引き寄せられ、痩せた背中ごと主の胸の中に抱きこまれた。
秀吉は半ば茫然としつつも、信長のこういった悪ふざけにはある程度馴れているため、あっはは……と苦笑いを漏らして観念する。これ以上、無用に狼狽したり暴れたりすれば、脳天に強烈な拳骨を落とされることになるので、黙って主の腕に抱かれたまま躯幹から力を抜いた。華奢で小柄な自分とは違い、ずば抜けて高い身長と体格に見合った筋肉をまとう信長の巨躯にとっては、秀吉の体など童子のように頼りなく弱々しいものでしかないのだろう。主にしてみれば片腕で軽く抱き締めているつもりなのだろうが、四肢は完全に押さえこまれてしまい身動きすらもままならない。圧倒的な体格差を顕著に実感する度に、満身を強ばらせる独特の緊張感が秀吉を見事なまでに静止させる。それとは逆に、体中に張り詰めてゆく緊張とはまったく別の高揚が、内部から自分を弛緩させてゆく矛盾した感覚を同時に味わっていた。強い腕、堅い胸板、炎のように熱い体温、随分と久しぶりに触れられた気がしてならないのは、自分の感じていた飢えが寡少の時を長く錯覚させるせいなのだろうか。
秀吉はほとぼりを帯びて恍然と曇る思考を持て余し、紫陽花を凝視しながら青い畳の繊維に軽く爪を立てる。次第に指先が小さく小さく震え出していた。
冷たい心奥へ、冷え切った体の奥底へ、主に触れている箇所から洪水のように熱が押し寄せてくる。自然と四肢が引きつった。あまりにも違いすぎる温度の差に全身が小刻みに震えて止まらない。先程まで寒さを訴えていた心が、まるで発熱に喘ぐみたく熱さに打たれていた。瞼を堅く閉じて急激に広がってゆく熱度の波に奥歯を噛み締める。あれ程までに欲したこの温度は、手にした途端逃げ出してしまいたくなる些少の恐ろしさを与えるものでもあった。捕らわれてしまえば逃げられない、逃げることすら許されない、この身を燃やして灰にするまで、燃え尽きることのない激情と苛烈を秘めて降りそぼる熱の雨。
芯までこごえていた体には燃えるような激しい温度に感じられた。躯幹は震えていたが不思議と胸中は次第に落ち着き払って、むしろ安らぎが満ちてくる。普段ならば羞恥が邪魔をして素直にそうは思えなかったが、今はもっと触れて欲しいと切実なまでに願わずにはいられなかった。このままで……と胸中で呟いた秀吉は目を緩やかに閉ざして、首をすくめる。瞼一枚を隔てたほの暗い闇の中で、背から肩から腰から、流れこんでくる温もりだけが、どの感覚よりも鮮やかで優しかった。
しかし、卒然、主の手に顎をつかまれ無理やり上向かされて秀吉は両目を見開いた。何度か瞬きをして逆さまに映る信長の顔を熟視する。自分の間の抜けた顔に見つめられて、主の口角が微苦笑に歪んだ。
「よう参った」
咄嗟に、はっと応じたものの、上を向かされているせいで声に力が入らない。苦しげに喉を鳴らして身じろぐと手が離れてゆく。秀吉は一度大きく吐息し、ゆっくりと身を反転させてから主に真向かう体勢になった。鼻先に主の端麗な面があったが、横向きに眺めているので少々妙な気分ではあった。
「このような様ではご無礼かと存じまするが」
眉を吊り上げて不満げに主を見ると、はっと鼻で笑い飛ばされて終わった。
「しのびの対面故、面倒な作法はいらぬ」
しのびというのは非公式という意味合いに近かった。非公式ということは、この対面は私事であるということに他ならない。秀吉は、いぃっ?! と珍妙な喚声を上げて困惑に顔をひそめる。
しのびとは私事、即ち自由の利く時間であるということにもなる。信長がしのびと口にして自分と対面した場合、大抵は帰ることを許されなかった。そして、また、秀吉の職務が急を要するものではない限りは、自分と主の対面はほぼ大半がしのびとなる。しのびという言葉が何を意味しているのか、秀吉には分かっていた。主は自分を帰す気はないと断言しているのと同じことなのだ。留まれという遠回しな命令の裏にある真意も嫌という程に理解している。主の私的な時間に付き合わされることに異論はなく、逆に歓迎すべきことだった。それというのも、純粋に会話や酒盛りに興じる場合もあるので、楽しいという意味でも悪い気はしない。だが、頻度として最も高いのは何よりも主の褥にはべることである。秀吉にとってしてみれば、しのびと主が口にした時点で面と向かって、伽をしろと言われているに等しかった。
毎度のことながらも、あっさりとそういった要求を口に出してしまう主の明確さには自分の方が羞恥をかきたてられた。意地悪く薄い笑みを浮かべる信長を唖然と凝視した秀吉の頬が一気に熱くなる。いえ、そういう問題ではと慌てて顔を背けて無理やり眉間に皺を刻むと、こちらを見ろと言わんばかりに顎髭を引っ張られた。いだっと小さく悲鳴を上げて顎をさすった秀吉は涙目で主を睨み
「このような有り様を見られでもしたら、蘭丸殿に」
と言いかけた自分を遮って、にわかに、失礼致します、信長様と聞き慣れた青年の声が聞こえてくる。秀吉は瞬時に口を噤んで痩躯を大きく引きつらせた。
聞こえてきたのは間違いなく蘭丸の声である。
明白な体格差のおかげで巨躯に隠されているため、自分が信長の傍らにいるということは声でも上げない限り分からないはずだが、問題はむしろ。
恐る恐る主を一瞥すると、自分の狼狽ぶりを眺めている信長の口元がにいっと吊り上がって、いかにも楽しげな笑みが形作られる。秀吉は内心、いかんっと悲鳴を上げた。堅く口を閉ざしたまま、ぶるぶると左右に首を振って必死に訴える。だが、鋭利な双眼には獲物をなぶる獣の愉悦がちらつき、秀吉が慌てて惑う程に喜々とした輝きが強まってゆくような気すらした。蘭丸にこの状態を教えてしまった方が面白そうだと信長は考えているに違いないのだ。秀吉は、ご勘弁下されぇっ! と心中で喚き散らしてちぎれんばかりに首を振り続けた。
やましいことをしている訳ではないが、主命とはいえ礼を欠いた行いをしていることに変わりはない。蘭丸に知られれば、まず叱られることは確実だ。そして、更に何をしていたのかと問いただされることも予測がつく。自分だけが青年に叱責されるのならばまだいい。そこに主が加わって余計な半畳が入ると手がつけられなくなってしまう。青年に叱咤され、主に揶揄され、板挟みの苦しみに耐え抜く自信は今の自分にはない。
「秀吉様はどちらに?」
予想通り、自分がいるとは気がついていない蘭丸の怪訝そうな声音が聞こえてきて、心臓が口から飛び出るかと思う程に動揺した。秀吉は顔の前で両手を合わせて、にやにやと笑みを浮かべた信長に必死になって頭を下げる。自分の慌てふためく様がおかしいのか、くっと短く喉を鳴らした主は顔を背後へ傾け
「厠よ」
などと、いかにも面倒といった風情で吐息交じりに応じた。実際面倒なのだろう、言下に、はっと信長が呆れたようについた溜息が耳朶をかすめていく。主の言葉を疑うことなく青年は納得して、ああと声を上げ、では、呼びにと言を継いだが
「お蘭」
と鋭く主に呼ばれ、はいと些少驚いたみたく返事をした。よいと片手を宙空でひらつかせた信長が
「呼ぶまで下がっておれ」
そう鷹揚な口調で命じると青年は戸惑いがちにではあったが素直に、はいと応答する。暫時続いた沈黙の後に微かな足音と衣擦れの音が遠ざかって消えた。
足音が消えてから、でと唐突に言葉を発した信長の憮然とした面持ちを秀吉は上目使いに見る。
「お蘭に、何だ」
「何だ、って……! 開き直らんで下されませっ」
わざわざ信長の物言いを真似て言い募った秀吉の頭を主が軽くはたいた。上様ぁっ! と堪らず叫んで起き上がりそうになった秀吉の両脚に、主の長い脚がどかりと乗っかり押さえつけられてしまう。おかげで持ち上がった上体は呆気なく畳の上に崩れ落ちて、こめかみを打ちつけてしまった。うっと短く呻いてこめかみを押さえた秀吉の体が元の通り主の腕にすっぽりと収まる。起き上がることもままならず、文句の一つもぶつけてしまいたい気持ちではあったが、眼前で底意地の悪い笑いを浮かべる主の顔を見つめていると腹を立てるだけ自分が損をすることは目に見えて、喉まで出かかっていた言葉を無理やり飲みこんだ。悔しくなってふいと痩身を反転させ、涙ぐましいささやかな反抗と知りつつも主に背中を向けてしまった。再び背を包む温もりに秀吉はぐったりと畳に頭を横たえ、些に乱れて惚けた自身の髪を指先で弾く。
恐らく、蘭丸は自分達の様子を窺いにきたのだろう。気の利いた彼のことだ。必要とあらば茶や酒の用意をしようと考えて、談話を楽しんでいるはずの主と自分のところへやってきたに違いない。いつもは話が盛り上がり、そろそろ喉が渇いたと感じた頃に蘭丸が現れて「信長様」と控えめに声をかけてくるのが常である。ちょうどよい頃合いにやってくる青年に主が茶や酒宴の用意を命じ、運びこまれる珍しい菓子や酒肴の数々が自分を信長の元に長く引き留めた。ところが、今日は少々勝手が違うことに気づいて蘭丸もさぞや困惑したことだろう。すまんことしたわなぁ……と自分のせいではないにしろ、青年に対して急に申し訳なくなり秀吉は心中でこぼして眉をひそめた。しかし、眉を一層険しく歪めて、奥歯を強く噛み合わせる。
今日はいつもと違う。ほんの少しだけ、誰にも見えない、誰にも分からない、暗闇に落ちる雨垂れのように、注意していなければ聞こえもしない音が些細な違和感を与えるだけに過ぎない微妙な変化。その実、自分の胸の奥でだけ大きく波紋を広げる冷たいよどみは自分がかぶった泥水と似て、拭えば汚れは落とせるが残された痛みは簡単に消えはしない。目と胸の痛みを実感すればする程、一度は浸透した温度が緩やかに消え去ってゆくのが分かった。またもや寒いという感覚が体の内側に氷を張り、躯幹を巡る血から温みが奪われる。秀吉は主には分からないよう密やかに痩躯を強ばらせた。一瞬もこごえることのないように、もっと触れて欲しいと願い請えば主は聞き入れてくれるだろうか。
そんなふうに、知らず知らず主に助けを求める自身の浅ましさに嫌気が差して、違うと心の中で怒鳴った。会えただけでもいい。それ以上を望んでしまうのは、ただの我がままだ。秀吉は堪らず起き上がろうと上体を起こしたが、信長の脚はどかない。上様と咎めるように呼んだが応じる声はなく、変わりに伸びてきた腕へと捕らわれ、静かに畳の上に引き戻された。突然、襟足に吐息が滑り唇が触れて、んっと口内で小さく驚きの声を漏らす。袷からするりと主の手が入りこみ、素肌の肩を撫で上げ無防備に傾く首筋にはい上がった。信長のてのひらの熱さにひくりと双肩が僅かに揺れて、秀吉は喉の奥でこぼれそうになる溜息を押し殺す。
「冷えておるな」
うなじに触れたまま言葉をつむいだ口唇が背骨に沿って肌を滑り落ち、襟を噛んでくつろげた主があらわになった盆の窪に口づけを落とした。
「蘭丸殿に拭って頂きました故」
肩をすくめて、ぞくぞくと粟立つ肌と身内の震えを必死で堪えながら、なんとか平素と変わりない口調で応じる。濡れた手拭で丁寧に拭われた肌は、確かに気温よりも低い温度を保っていたが、皮膚に浮き上がる冷たさの大きな原因は自身の心奥にある。秀吉は身を萎縮させて自身の体に染みいる熱さに歯を噛み締めた。肌と肌を隔てる布地が邪魔に思える程、この温もりに焦がれていたのだと痛感する。いかに自身が己の甘えを戒めようとも、頑なな抗いもまた主の体温に溶かされ、言葉と心を呆気なく丸裸にされてしまう。欲していたものを手にした喜びとは裏腹に、自分がなんとか繕い隠し通そうとしている真情を暴かれてしまうことが怖くて逃げたい、漠然とそう思った。秀吉の胸中を見透かしたように、些に崩れた襟元から、ささやかにはだけた肩へ口唇を落とされ、触れるそれの温かさに身じろぐ。指の背で胸や腹をくすぐられ、上様……と非難がましく呼んで着物の上から衣服の中で動き回る手を押さえこんだ瞬間、耳朶の裏側に口づけを見舞われ、顎の付け根に軽く歯を立てられ吸われた。ぴりっとした痛みのすぐ後にじんと痺れるような感覚が皮膚に居残り、噛みつかれた極小さい範囲だけが、より一層熱を帯び淡い火照りで細胞を焼く。自身の体を探る手と首筋を撫でる口唇が、頑なに弱さを拒む無益な忍耐を丁寧に剥ぎとってゆくようで意思がたわむ。秀吉は怖くなって主の背から身を引いた。だが、許されず今度は両腕で堅く抱き寄せられ引き戻されてしまう。
「誠か」
耳朶に軽く噛みついた唇がおもむろに問うた。唐突によこされた質問の意味を瞬時に悟った秀吉は、心臓が冷たく跳ね上がった気がして顔色を変える。信長には分かってしまうかもしれない。否、既に知られているのだろう。自分が普段とは違う感情を抱えたまま会いにきたことを、見抜かれてしまっている。心中で歯がみして四肢を微かに堅く縮めた。無駄な単語の一切を省いた主の言葉を即座に介することのできる自分には、何を問われているのか分かっていた。
泥をかぶった理由を尋ねられ、自分は先刻「転んだ」と答えた。信長にはそれが嘘だと悟られたことには気づいていたが、言及されなかったので主は自分の誤魔化しを容認したとばかり思っていた。だが、違う。じっくりと問いただす機会を待っていたに過ぎなかった。幸いにも向かい合っている訳ではないので表情から心を読み取られる心配はない。秀吉はなんとか、あはは……と力なく笑い声を上げ
「はい。石に蹴つまずいてしもうて」
と返答したが、強ばった顔では後ろを見ることができなかった。と、不意に主の腕と足から解放され、秀吉は自身でもみっともないと滅入りながら、逃げるみたく急いで身を起こすと胸元を正して正座をする。同じく、主も上体を億劫げに持ち上げ、立てた片膝に肘を預けて秀吉を見据えた。信長が手を伸ばせば、すぐにでも捕縛されてしまう至近距離で対峙する状態になり、厳しく自分を凝見する主の視線に耐え兼ねて目を逸らした。
「阿呆め」
よく通る低音は僅かに鋭く、だが、責める強さはない。
「ごもっとも」
俯き加減に顔の位置をとどめたまま頷いた秀吉は弱く笑った。
あからさまではないにしろ、主は無言の内に真実を話さない自分をもどかしく思っているのだということは理解できた。申し訳なさと己の情けなさに、今にも崩れ落ちそうになっている心を強引に奮い立たせて、やはり信長とは目線を重ねないように秀吉は目を閉じて笑う。
「瑣末な用向き故、信長様にお会いできるとは思いも寄らず、僥倖にございました」
「阿呆が」
間髪入れずに言い放った主の声に鋭さが増した。驚いて顔を上げた途端に苦く歪んだ表情をした主の睥睨を受けた秀吉は唇を噛み深く下を向く。
瑣末な用であろうと、主が自分の訪問を無下にするはずがない。それは秀吉とてよく分かっているはずのことだった。今日のように服が汚れるなどの問題でもない限りは、自分に会うことを主もまた楽しみにし、会う時間を設けることにやぶさかでないことを了知していたはずだったのに、平常の陽気を逸した心には消極性がこびりついて中々消え去ろうとはしない。秀吉は自身の言葉に険しく面を歪めて口元を片手で覆い、眉宇を濁して双眸を閉ざす。
ずるい人だと思う。図々しさや太々しさを許しはしない癖に、心奥にしまいこんで見せたくも語りたくもない感情は、吐いてさらけ出してしまえと詰め寄ってくる。自分の脅えを見透かしたように、隠そうとした煩悶をゆっくりと暴いてしまうのだ。
秀吉は心中でかぶりを振った。主がずるいのではない。ただ自分が卑怯なだけだ。自分が姑息に逃げ回っているからこそ、信長の真摯と愛情を真っ向から受け止めることができずにいる。
限界だった。
心の痛みよりも自分の浅はかさが情けなくて泣けてくる。目の縁にじわじわと迫り上がってくる熱い塩水を懸命にやり過ごして震える唇からなんとか言葉を絞り出す。
「申し訳……」
詫びの言葉は中途で音をなくし、遮られた語尾は吐息の中にかき消えた。
素早く後頭部に回された手に引き寄せられ、驚く間もなく主のそれで荒く口唇を閉ざされる。言葉を奪い去るためだけに触れた唇はすぐさま離れて、吐息が交わる距離で主と見つめ合った。驚いて言葉を失った秀吉を黒鉄色の双眼が鋭く見据える。
「強情なること」
苛立ちとも呆れともとれる乱雑な溜息の合間に主の低音が漏れた。
「可愛げのない」
ふんと鼻を鳴らして言を継いだ信長の手が秀吉の胸倉をつかみ引き寄せる。前へ体勢を崩した秀吉の耳に
「しけた面をしよるでないわ」
と厳しい語調で主の叱咤が聞こえてきて軽く抱きとめられた。秀吉はつい、申し訳ございませんと口にしたが頭を扇子で叩かれて押し黙る。そして、閉口したまま瞼を強く閉じた。会いたいと願った時点で自分は泣きついていたも同然なのだ。その広く揺るぎない腕の中にだけある安らぎに、すがりついたも同じことだった。傷ついた時にどうしても会いたくなるのは、じょじょに重なり堆積してゆく自分の悲嘆を癒すことができるのは主だけだと痛い程に知っているからだった。
主にはそれが分かっている。分かっていなかったのは自分の方だ。
鼻の奥がつんと痛くなり、自身がどうしようもなく情けなくなって秀吉は極度に顔をしかめ横を向いた。すると主が扇子で軽く頬を打ち、渋々目線を信長に合わせる。眉間に薄く皺を刻んだ主の双眼が、仕様のない奴だと呆れを滲ませていることに気づいて最早諦めもついた。信長に泣きつきにきた自分に、些細な憂いに捕らわれる自分に諦めがついて、恥も外聞もなく、目の前にある安らぎにすがってしまおうと自棄な気分に陥る。同じ叱咤されるのならば偽りの笑みで主を苛立たせるよりも、まだしも非礼を働く方がましに思えてしまうのだから不思議で仕方がなかった。
秀吉はむすっと眉を歪めて主の鼻先に顔を寄せる。
「ご無礼を」
半ば投げやりに、しかし、至って真剣にぼそりと呟いて、自分から主に口づける。触れるだけですぐに離れると
「仕置くぞ」
短く笑って冗談とも本気ともつかない言葉を口にした信長が、怖ず怖ずと退こうとした秀吉の唇に追いすがって口づけを見舞った。
「清々しき麗しさよな」
紫陽花に目をやった主が鋭い双眼を薄く細めて、鋼の色をした瞳に柔らかく喜悦を滲ませる。はいと柔和な笑みを滲ませて相槌を打った秀吉もまた紫陽花を見た。
「紀之助と申す小姓が育てました紫陽花にござりまする」
「褒美をくれてやるか」
うぬにも紀之助にも、なと言を継いだ主に小さく吹き出した自分を見て、信長もまた喉で笑った。秀吉は主を熟視して微笑む。目端に些少浮き上がった涙に眉根を寄せて、心の中で安らかに溜息をついた。
別の雨が降る。
氷雨に打たれ、冷たさがこびりついて離れなかった胸奥に、あらゆる憂鬱を、懊悩を押し流して尚降り止まない雨が。主だけが与えてくれるその温みと熱さと潤いは、絶え間なく降り注いで心を満たすまで決して止まない。褒美と呼べるものならばもう、この胸の中で身を焦がす程に熱く、降っている。
しばらくしてから、いえと軽く首を振り
「もう……頂きました」
震える声音で、囁きよりもそっと密やかに言って、秀吉は迫り上がる涙を押さえこむように瞼を堅く閉じて微笑んだ。
にわかに、強い力で引き寄せられて堅固な胸板と頑丈な両腕に捕縛されたが、うろたえもせず抗いもしない。おとなしく抱擁を受けて信長の胸板に頬を寄せた。
「無欲な」
揶揄とも思える軽い調子で応じた主に、秀吉もつられて小さく笑った。笑った途端に唇を攫われ、手際よく元結を解かれてしまう。解放された髪を骨張った太い指がやんわりと握り、柔軟な感触を楽しむように指先がうなじで踊った。雨にしっとりと濡れた髪は誘うように主の指に絡みついては滑らかに流れ落ちゆく。今、自身に触れる主のすべてがうっとりと意識を霞ませる程に心地よく、体躯の中枢に流れこむ温もりを今度こそ素直に享受した。
些に離れて目の下に唇を落とした信長が喉元で低く笑い、長いひとさし指で耳殻の後ろを撫でる。指に絡んだ髪に口づけた主の目が、快いといった風情で細められた。
「いまだ冷えておる」
いえ、もうと答えかけた唇を再度口づけで塞がれ、肩を些に揺らした。反射的に退こうとした頭を大きなてのひらに収められてしまい、腰を堅く抱いた腕が接吻の深さに酔う自分の隙をついて、ゆっくりと帯を解いていることに秀吉は気がつかなかった。
いつの間にか緩められていた帯のせいで、袷がだらしなく左右に開き痩せた胸板が主の眼前にさらされる。抜け目なくするりと袴の空きから侵入した大きな手が下帯を解き、秀吉は僅かに身をよじって、信長様と小さく呟き厚い肩に手を置いた。信長のてのひらが背を、腰を、首の裏を、大腿をなだめるにも似た優しさで滑り、過ぎ去った手が残してゆくあまりにも熱い温度に喉の奥が引きつる。信長様……とこぼすと、戸惑いの滲んだ密やかな声はやはり口づけに攫われ、一層強く抱き寄せられた体はゆっくりと畳の上に沈められた。充血の残る目をいたわるように頬を撫でる大きな手の熱さに恍然と四肢が脱力し、見上げていた主が袖から腕を引き抜いて、鍛え抜かれた上半身から自ら布を剥いでゆく。ずしりとした重量が自身の体にのしかかり、確かな重みに、はぁっと小さく喘いで顎を反らせた秀吉の喉元に主の唇が触れた。
無意識に伸ばした手を握り締められる。冷たかった指先が瞬く間に体温を取り戻し、堪えても堪えても、眼窩に迫り上がる温みをやり過ごすことができなかった。
「存分に温まってゆくがよかろう」
耳朶をかすめる穏やかな低音に、ただ頷くことしかできず、秀吉は堅く瞼を閉じて肌に触れる温もりに意識を預ける。
主が降らせる雨はいつのときも優しく肌を打つ。乾き飢えた喉に染み入るようにして、凍える心に欲した温かさを惜しみなく注いでくれる。
この温もりに打たれて、よどんだ水もわだかまる泥も洗いざらい押し流されて消えてゆく。闇も陰も、悲しみも痛みも、そして、苦しみも、すべてがすすがれ、冷たい震えは瞬時に止んでしまう。
積もり重なり、次第に大きく広がってゆく傷口はこの雨に癒され、自分はようやく。
ようやく、心置きなく笑っていられるのだと思い知る。
今、心を震わすのは寒さではなく熱さ。
押し寄せる熾熱に指先から爪先まで余すことなく強く抱かれ、我が身にのみ降り注ぐ優しさが、今この時、泣きたくなる程嬉しい。 |
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