そばえ





















雨が降ってから何故か気がついたのは、曇天にその色の鮮烈さが殊更映えたせいだった。

羽柴秀吉はふと足を止め、庭先をまじまじと眺め見て口元にやんわりと笑みを滲ませる。
息の詰まる湿度を煽る連日の雨が真夏の青天を鉛色の雲で重く覆い、心なしか近習達の顔にも憂鬱がわだかまる日が続いていた。酷暑ともいうべき高い気温は間断なく降り注ぐ雨水によって多少は癒されるものの、元より空気を圧迫する湿度は日増しにひどくなってゆく。降る水で空気が冷えればその僅かな気温差で濡れ縁などに結露が生じ、何げなく踏み締めると足を滑らせ一瞬ひやりとさせられることもあり、秀吉が手飼いにしている若い小姓衆のうち何人かは転倒して膝や尻を打ちつけてしまった。また、妻戸などの戸板は水分を含んで膨張し、開閉の際にはきしんで中々桟にはまらない。べたつく家屋と皮膚に汗が滲む程度の蒸し暑さは体よりも精神をさいなみ、平素から快活さを欠かない秀吉の家臣達もここ数日は溜息ばかりこぼしていた。

かくいう秀吉自身も決して陽気という訳ではないが、天気に不満を垂れても仕方がないと割り切って、愛嬌のある面にいつもの朗らかな笑顔を浮かべている。何より、出自が農民であった自分にとっては、苛烈な日光にさらされて乾いた土を解す雨程にありがたいものはなく、武士となって主君から高禄を賜る身上となっても雨に対する好感は変わらなかった。水が干上がった水田で枯れてゆく稲や、風に吹かれれば砂塵と化す土の上で萎れて変色した野菜や穀物を幼い頃から幾度となく目の当たりにしてきた秀吉には、大地を潤す雨は正に天の恵みと呼べる代物に相違ない。収穫量の増減はそのまま作物を作る農民に多大な影響を与え、凶作であれば人々は飢えて死に、豊作であればその年に産まれた赤子も生き延びることができる。降りすぎれば作物の根を腐らせ、ある時は凶作をもたらす雨も、日照り続きの後には安堵とともにありがたいと感じられた。
しかし、雨は外出の機会を妨げ人を家の中に閉じこめてしまう厄介なものでもあり、普段から外で元気に跳ね回ることを好む小姓達若い衆はさぞや無聊に苦しんでいることだろう。そして、そんな小姓達と同じように、家の中でじっとしていられない質の自身の主君もまた、この雨に退屈し苛立っているのではないだろうか。

秀吉は何とはなしに苦笑して、眉間に薄く皺を刻んだ自身の主、織田信長の顔を思い浮かべて大きく丸い双眸を柔らかく細める。退屈しておられるだろうと心中で呟いて、縁側から一向に晴れることのない曇った空を見上げた。
今現在、秀吉にはこれといって割り振られた業務はなく、城下町における楽市楽座や税制の整備のため、数日に何回か城で会議を開く程度にとどまっている。雨が降る前に一度、信長の居城である安土城に機嫌奉伺のため登城した日から五日は経っていたが、あまり頻繁に安土へ機嫌を窺いにゆくことは秀吉の立場からして好ましいとは言いがたい。一大名として城を与えられ、今や織田家筆頭の軍団長と言っても過言ではない秀吉だが、異例の大出世に対して、いまだ人からの嫉妬を免れずにいることも事実だった。昔よりははるかに減ったといっても、出自の卑しさをあげつらって主に媚びて取り入った浅ましき輩だと悪罵する者も少なくはない。

会いたい、会いに行こうと思っても、信長のところに足繁く通えば自分を猜疑の目で見る人々は「奴はまた上様に媚びている」と罵るだろう。自分が陰口を叩かれることには馴れていたが、そのことによって主が貶められることが最も我慢ならないことだった。秀吉ごとき下賎の者を寵する信長なる人物の品格、甚だ卑賎などと、主を理解しない人間達から唯一無二の己の主君を嘲笑されることだけは、どうしても許せなかった。

秀吉は目線を庭に戻して面から笑みを消し去る。立場が変わる程に主と顔を合わせる機会は減り、信長が右大臣という官位を朝廷から与えられて後は対面するにも取り次ぎを必要とするようになったため、一層会うことは少なくなった。加えて、秀吉自身も今後、遠隔地への出征を命じられる可能性が高く、そうなれば多忙と距離によって益々主と見える機会はなくなってゆくだろう。せめて時間のあるうちにと思うものの、登城する理由を作るのにも苦労する。

つい溜息がこぼれて秀吉は腕を組み、傍らにあった柱へ半身を預けた。自身の視線の先には紫色の紫陽花が咲いており、日の光が届かない薄暗さの中で鮮やかな彩りが殊更美しく、先日までは素通りしていた庭に目を留めたのは、視界の端に艶やかな紫が閃いたせいだった。
自身が各地で見出し、長浜の地で育成している小姓達に、以前植物を育てさせたことがある。生物の世話は動物、植物ともに手間がかかるものであり、まめに面倒を見なければ上手く育てることはできない。小姓達の情操教育を兼ね、各々の性格や判断力を見るため、植物の種を与えて庭で育てさせることした。庭のどのような場所に種を植えるのか、単に植えるだけでは芽吹くことなく枯れる花々の繊細を知り抜き、最も適した条件を有する場所を選ぶ観察力は戦場でも必要とされるものだ。また、こまめに面倒を見て花の状態に合わせた水やりや肥料やりなど、細やかな配慮は対人関係において友好を築く第一条件と言える。彼らがどのように植物を育てるのかを観察することで、小姓達の誰がどのような仕事に向いているのか、ある程度は判断がついた。

例えば、虎之助は小姓達の中でも一際がっしりとした体格をしており武芸にもずば抜けていたが、存外まめに面倒を見て何十本もの大輪の向日葵を咲かせ、秀吉や秀吉の妻、ねねに数本を献じにきたし、佐吉は神経質な程丁寧に世話を焼いたものの、彼の植えた百合は蕾のまま立ち枯れて結局咲かずに終わったのだが、佐吉自身は対して悔しそうでもなく、むしろ枯れた百合の方が悪いとでも言わんばかりの態度だった。市松は昼に日当たりがよくとも夕方になると日陰になる場所へ種を植えたせいで、結局朝顔の芽は出ずに終わり、虎之助と並んで見事に花を育てた紀之助の紫陽花は、今もこうして毎年花をつけている。紀之助はその後も花の面倒を見、時たま株分けなどして庭に紫陽花を増やしていった。毎年、自身の元に紫陽花の株分けをしてもよいかと、わざわざ尋ねにくる紀之助の丁重さには秀吉も感心することひとしきりだった。

すっかり紫陽花に占拠された庭先は雨が降る程に美しく映え、水に濡れて尚喜々としてほころんだ大きな花は、濃い真紫という珍しい色彩をまとって今年も鮮烈に咲き誇っている。不思議なことに、太陽光の下で眺めるよりも雨のひた降る曇天においてこそ、この花は最も優雅に咲くような気がしてならない。何にも増して花の色が秀吉の瞳を釘づけにした。赤であり青、青であり赤、絶妙な混合の末に創り出された高貴な彩り、青と赤を彷彿とさせながらも確固たる自我を持ち、決して青と赤にはなり得ない紫という艶麗な色合い。他に染まることのない深みと細やかさを有したその色は、青よりも赤よりも、他のどのような色よりも麗しく鮮やかだ。


お見せしたい。


ふと、そんな衝動が胸に浮き上がってきて、秀吉は再び雨空を見上げる。雨に映えるこの花を、無聊を持て余して苛立っているであろう主に見せたいとそう思った。日の光の下では垣間見ることのかなわない美しさで、主を少しでも楽しませることができるのなら、と。妙なる紫はまた、他の人間と圧倒的に違う主の激しい異質を思わせ、太陽光を好む花々とは異なり、雨水を帯びてより麗しさを増す紫陽花の独自性と少し似ている気がした。豪華な贈呈品や献上物には格段に劣るが、紫陽花の束を両腕に抱えて登城してきた自分を見て、主はきっと、奇態な姿と笑ってくれるだろう。それだけでも暇つぶしにはなるはずだ。
淡く口元に笑みを滲ませて秀吉は、そうすっかと声なく頷いて軽やかな足取りで歩き出す。
「ねねー! はさみあるかぁ?」
歩きながらどこにいるとも把握していない妻の名を呼ぶと、遠くの部屋から、お前様ーっ? と尋ね返す声があった。声のした方へ駆け出しながら、はさみじゃ、はさみ! と叫びつつ、はっと気づいて
「紀之助に頼まにゃあいかんな」
と一人ごちて喉で笑う。紫陽花を育て咲かせたのは紀之助だ。あの花は彼の物であって自分の物ではない。数本もらえるよう、彼に頼まなくては礼儀に反するだろう。いかに主従といえども、人の育てた物を勝手に切って持っていってしまうのは盗っ人と同じことだ。秀吉は生来、家臣の所有物は自分の所有物だといういかにも専制的で横柄な思想を持ち合わせていない。主従である以上同等という訳にはいかないものの、彼らが幼いうちはなるべく父親のように接したいと考えるのは、自身に子がないことも理由であるかもしれなかった。父親は子に与えても、子から奪ったり取り上げるような真似はすべきではない。さて、と薄い顎髭を撫でていかにも楽しいといった風情で、にまにまと笑みを浮かべた。
「紫陽花刑部殿は何本花を分けて下さるじゃろうか」
冗談を独白して一度足を止めた秀吉は再度、曇天を見上げる。
花を献じるために主君の元へゆくなどと、他人からすればひどく滑稽で無意味な行為に映るのだろう。だが、些細なことであっても主が喜んでくれることを自分は常にしたいと思っている。誰が見ても下らないつまらない、どうでもよいことであったとしても、信長が笑ってくれることであるのならば、自分にとってこれ程有意義なことはない。


それに。


笑みを崩すことはなく、しかし、些少眉宇を濁して秀吉は奥歯を緩く噛み締める。

会いたいと願っても会える人ではない。会うためには理由が必要になる。会いたいのならば、どのようなことでもいい、理由を作らねばならない。

遠いと感じる刹那がある。昔は誰よりも卑近に感じられた主の存在が、今は遠くて隔たれたもののように思えてしまう。ただ会いたいと思うだけでは最早届かない、昔から何一つ変わるものはないはずなのに時折胸を過ぎ去ってゆく寂しさを自身でもどうすることもできなかった。

心にまで長雨が滲出してきたように、ひやりとした憂いが急に心奥を震えさせる。濡れて凍え始めた心から滴を拭い去ろうと、秀吉はふるりと一度首を振って自身の暗澹とした感情を懸命に頭から追いやった。
こびりついた雨水はこの湿度の中では中々乾くこともなく、温度を奪い心身を冷たくさいなむと知りながら、素知らぬふりを決めこんで。









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自身でも気色が悪いという自覚があった。しかし、どうにも止まらない。
緩む口元とともに笑みの途切れない相好を一旦自身の手で打って引き締めようとしたが、痛みに一瞬引きつった頬は直ぐさま解れてにんまりとほころぶ。
秀吉の領地である長浜から主の住む安土城は、人の足で行けば二日、三日はかかる道程だが、馬を急がせるか、或いは琵琶湖を舟で渡れば半日とかからない。最も美しい状態で花を献じるのであれば急ぐに越したことはないが生憎の雨である。陸路をたどればぬかるんだ道に阻まれて馬も走りにくくなり、疾駆する際の激しい振動で花が散ってしまう恐れもあった。今日中に安土へ到着することを望むのであれば舟が最適だと判断し、船頭を急かして琵琶湖を渡ってきたのは、つい一時間前のことになる。

屋形舟のように屋根のついた舟ではなかったため、傘を差し蓑を被ったが衣服は濡れそぼってしまい、安土城下にある自身の装束屋敷で正装に着替えてから屋敷を出た。供の者は着けず、藁にくるんだ紫陽花の大輪を両腕に抱えて、大きい蛇の目傘を肩と頬に挟み、なんとか柄の末端を片手に握るといった、ひどく滑稽な風体で歩いている自分に通り過ぎる者の大半が足を止めた。だが、当の秀吉にとってはそんな好奇の視線もまた愉快で、半分藁に隠された面に先刻から楽しそうな笑みを浮かべている。

想像にやすい。
取り次ぎの間に至って担当官に対峙すれば、彼らは自分の姿と拝謁の理由に意表を衝かれ閉口するだろう。そして、主に告げるにもひどく狼狽するに違いない。自分が紫陽花を献じにやってきたと伝えれば、信長は下らない理由で拝謁を求めるなどもっての他と怒り出すと予測するのが当然だろう。だが、秀吉は主ならばなんとも滑稽な拝謁要求を逆に笑い飛ばして、会うと答えるということを分かっていた。決して自惚れではなく、堅苦しく礼儀を重んじる頑なさや、礼節をわきまえず粗略に振る舞う暴虐を、信長はいずれも好まないということを熟知しているからこそ、主の対応を想像し得ることができる。

紀之助が快く分けてくれた美しい紫陽花に鼻面を寄せ、秀吉はふと口元から笑みを消した。
信長が自分にとって単なる主君ではなくなったのは出会った頃、昔、互いがさほどの地位も権力も持ち得なかった若かりし頃のことだった。士官先を探して諸国をさまよっていた自分を拾い上げてくれたのは他でもない信長で、己の才と力を余すことなく使いこなし引き出してくれる主をずっと探し求めていた秀吉にとって、主は理想的とも言うべき合理性を兼ね備えた人物であり、貴賎を問わず有能な人材を用いる変わり者でもあった。己を曲げることなく常に自身の信じる道を進む豪胆さと、他に類を見ない着想で人々の度肝を抜く非凡さを合わせ持つ主の強さに、秀吉も幾度感嘆させられたかしれない。うつけなどとそしられながら人は信長の動向から目が離せずにいる、主には生まれついて人の心を惹きつける特殊な風格があるとしか思えない。秀吉自身そうだった。自身が今まで仕えてきたどのような主人とも異なる、心を捕らえて離さない信長の異彩に恋するようなひたむきさで憧憬を抱いていた。この主君ならば自分をよりよく使いこなしてくれるという期待と歓喜、また一人の人間としても信長を好いていた当時の自分は、恐らくまだ無知であり無邪気であったのだと思う。

召し抱えられてから主の身辺に控えていることの多い役職に就いた秀吉は、卑近で信長に接する程に違う形で心惹れていった。他を圧倒する異質の中に存在する孤独、周囲の無理解に対する飢渇、そして、まっとうな愛情を知らずに生きてきたことによる満たされることのない不足感、主の奥底で黒く燃えて揺らめく苦痛と怨嗟の闇を知り、人間織田信長に共感と情愛を抱いた。
自身もまた経験してきたことだ。孤独も無理解も愛情を得られない生き様も。痛み続ける心は何度となく繰り返される虐げから逃れたがって、いつも喘ぎもがいていた。それらの苦痛を回避するために、秀吉は他人から冷淡に扱われることを許容することによって、他者に受け入れてもらうことを選んだ。主は逆にすべてを拒絶し攻撃することを選んだという違いでしかなく、同じ痛みを知る互いへの理解と共鳴が、すがりつくような必死さで互いを求めるに至るまで大した時間を必要とはしなかった。

仕官して間もなく、自分は主に職務としてではなく抱かれた。今まで何度となく、そして、今尚激しく、欠けた箇所にぴたりと埋まり、正常な形を成す互いの胸の中を肌で唇で確かめてゆく度に、この世には裏切らない愛が真実存在するのだと、泣きたくなるような痛切さで思い知る。

昔から今現在まで、自分の想いは決して変わることなく主を見つめていた。心が妙に冷えきって上手く笑顔を象ることができない時、無性に会いたくなってしまうのは、触れた皮膚を焦がす主の苛烈な情熱に飢えているからだと自分でも分かっている。思考を奪い尽くし、心を焼き焦がし、容赦なく刻みこまれる白熱の最中で主のことだけを想う瞬間、枯れ果てて乾き切った大地に雨が染み入るように、優しく強く胸の空洞に降り注ぐ温度があった。主だけが与えてくれる、涼やかな潤いと躯幹に巡る充足の温かさを、満たされたことのない心を満たすどうしようもない熱さと喜びを知ってしまった自分には、それを忘れて生きることなどできはしなかった。

これは甘えなのだろう。弱さなのだろう。会いたいという気持ちを殺すことのできない自分の我がままなのだろう。口実を作って会いにきた自分の姑息を、主は笑って許してくれるだろうか。

紫陽花の花弁から玻璃のように透明な雨水が滑り落ちて足元の水たまりに小さな波紋を作る。鼻先に寄せた花の深い紫に双眸を細め、秀吉は、早くお見せしたいわ……と心中で楽しげに呟いた。精妙な色彩に次々と降りかかる雨が、鮮烈な紫を映したまま軽やかに地へと舞い落ちてゆく様は、何故かひどく自分の胸を弾ませる。
慎重に傘を傾け雨に霞む安土城の天守閣を仰いだ秀吉は、再び顔をにまにまと緩ませて歩みを進めた。泥に濁る水たまりを避けて歩くと、僅かに体勢が崩れるせいで勢い余って傘と花を手放してしまいそうになり慌てて両腕に力をこめるが、秀吉の痩躯では大きな傘と荷物に半ば振り回されてしまい中々前進しない。
おっ……わっなどと小さく声を上げて歩いていた秀吉の耳へ、不意にぱしゃっと激しく水を弾く音が響いた。と同時に、顔の側面や首をぬるりとした感触が滑り、肩や胸からじわりと冷たい温度が滲んでくる。
秀吉は茫然としてしばし棒立ちになっていたが、怖ず怖ずと片手で顔に触れて指先を見た。指についたものが泥だと分かった瞬間、土臭さが鼻孔をつき、流れ落ちた泥水が染みて片目が痛くなる。痛みを堪えて目を開いても、濁った水のせいで視界が判然としない。秀吉は泥水を被らずに済んだ方の目を大きく開いて顔を上げた。突然のことに何が起きたのか予測もつかず、思いきり顔を上げたせいで傘は濁った水たまりに落ちる。じょじょに痛みが増してきて泥水の染みた片目は堅くつぶった。
見上げた先には、傘を差して馬に乗ったいかつい髭面の男がおり、見慣れた相手の顔に秀吉は何はともあれすかさず会釈していた。
「柴田殿、お久しゅう」
馬上の男は柴田勝家といい、現在北陸地方の平定を担当する軍団長でもある。信長の父、信秀の代から織田家に仕えてきた譜代の重臣であり、家中きっての猛将であった。恐らく、勝家は戦況報告のため安土へやってきたのだろうが、随分と悪い日を選んでしまったものだと秀吉は心中で眉をひそめつつも面には笑顔を浮かべる。

今や地位はほとんど変わらないものの、勝家にはある程度へりくだる必要があった。どうにも扱いづらい男で、どれ程懇切丁寧に接しようとも秀吉を毛嫌いし、評価を改めようとはしない。勝家にとって自分はいまだ卑しい農民出のおべっか使いでしかなく、あまりにもあからさまに自分を見下す男の態度に、近頃さすがの秀吉も辟易しているところだった。勝家と同じく、秀吉とていつまでも自分を口汚く罵る男を嫌っている。しかし、嫌っているからといってそれを態度に表せば、家中でたちまち噂が立ち、些細な口論であろうと主の耳に届くことになり兼ねない。信長は公私混同を好まず、規則や法に関しては殊更潔癖だった。いかに主従を越えた次元で主の寵を得ているといっても、秀吉の態度に問題があれば主は自分を罰するであろうし、それに異論はない。何より、自分が大人気なく勝家に対して敵意を剥き出しにすれば、今や織田家の筆頭ともいうべき二人の武将のいさかいに主は頭を悩ませることになるだろう。主君の手をわずらわせる訳にはいかないという一心で、勝家の辛辣な言動にも目をつぶり口をつぐんできた秀吉だが、時折いい加減にしろと叫んでしまいたくなることもあった。自身より年長者でありながら、己の好み一つで人への態度を変える男の身勝手さはどうにも我慢ならず、また、辛く当たられた者の胸中を思いやれない無神経がとてつもなく腹立たしい。自分は主のためを思えばいくらでも堪えることができるが、他の人間が秀吉と同じように耐えられるかどうかは分からない。

ひやりと、心に募る冷たさが一層増してゆき、秀吉の心奥がこごえにも似た小刻みな震えを発していた。今は最も顔を合わせたくない人物だった。僅かであっても憂いの滲んだ心を持て余した今の状態で、自分をさいなむ人間には会いたくなかった。寒いと、そう漠然と思う。汗が滲む蒸し暑さの中で自分の痩躯はひどく冷えきって、末端から温度をなくしてゆくようだった。身内から全身にじわじわと広がってゆく寒さが、男の顔を見た瞬間助長され、血が体の下方へと沈んで体温が一気に下がった気がする。馬の蹄が跳ね上げたのだろう、泥水のどろついた感触と冷たさが心にまで染みこんでくるようで辛かった。ともすれば、苦く歪みそうになる面へ懸命に笑みを張りつかせた秀吉は
「帰着のご報告に参られたので?」
と尋ねる。だが、男は太い眉をしかめただけで、やはり返答はしなかった。
先刻、自分の顔を見た途端、勝家の表情がいかにも不快げに歪んだのを秀吉は見逃さなかった。男は自分が相手でなければ、泥を跳ね上げた非礼に対して馬上からとはいえ、詫びを口にしていただろう。しかし、相手が秀吉だと分かった男は、泥をかぶっているの方が相応しいと言わんばかりの軽蔑を含んだ目で自分を見下ろしている。自分がお前に何をしたと噛みついてしまいたくなる自棄の反面、仕方がないという一言で他人から粗略にされることを割り切ろうとしている色濃い諦観が秀吉を冷静にさせた。馴れていると思う程に、腹の底をちりちりと焦がしていた怒りが霧のように四散してゆく。ただ心だけが無性にこごえて、胸の奥が冷え過ぎたあまりに耐え切れない程痛かった。

自分が投げかけた言葉に対して無言と睥睨で返し、口内で舌打ちをして、行くぞと背後に控えていた近習へ声をかけた勝家を、秀吉は平素と寸分も変わりない笑顔で見送り、男の後ろ姿に会釈をした。自身の横を通過してゆく馬の足が落ちた傘を踏みつけ後方へ過ぎ去ってゆく。
蹄鉄の音が聞こえなくなってから、金縛りにあったみたく微動だにしなかった体がようやく動いた。ぎこちなく、顔の泥を袖で拭い、目の痛みに眉宇を濁しながらも秀吉は淡く笑って、花が無事でよかったと腕に抱えた紫陽花に顔を埋めた。はははと誰にともなく声を上げて笑った秀吉は、ぶるりと頭を振るって浴びた雨水を払い飛ばす。無理にでも笑わなければいたたまれない気持ちを押さえつけることはできなかった。
「これじゃあ、上様にはお会いできんわな……」
泥水に汚れた自身の着物に視線を落として、しゃーないかと無意識に呟く。肩口が雨に濡れて、暑さの中でも緩やかに奪われた体温のせいで痩躯が震えた。秀吉は泥水に浸かった傘を拾い上げ軽く振って泥を払い、肩口でそれを支えて城に向かい歩き出す。今から装束屋敷に戻っていたのでは日が沈んでしまうだろう。せめて花だけでも届けようと考え、秀吉は努めて陽気に足を急がせた。

お会いできんなぁ……と心中で何げなくこぼした自分の独白に、痛む片目から涙が滲んだのを、急げ急げと口内で何度も小さく呟いてかき消すように誤魔化した。