すさびごと




















杯に注がれる透明な液体を口に含むと、痺れに酷似した感覚と苦みが舌先を滑る。

涼やかな見てくれとは裏腹に、触れれば燃えるような発熱を促す液体は、清々しい苦さの中に淡い甘みを残して喉を滑り落ちてゆく。どれ程飲んでも喉の渇きを癒すことのないこの液体は、一度飲み干せば絶え間なく味わいたくなる欲求を起こさせ、潤いを与えない変わりに不可思議な高揚感で心身を酔わせた。苦手とは言え下戸ともいいがたい身に量が過ぎれば不快しか与えないこの水も、適量による微醺ともなれば話は別だ。

織田信長は心地よく巨躯に染み広がる酒の味わいに薄く双眼を細めた。杯を満たすそれを一気に呷ることはせず、傍らに置いた瓢箪の水を飲みながら少しづつ飲み干してゆく。酒がもたらす火照りと水がもたらす涼気と、冷めては熱すことを繰り返す自身の体には既に快い酔いが回っており、温まる血液に僅かばかり躯幹が解れてうっすらと眠気が押し寄せてくるのが分かった。酩酊し分別を逸する解放感とは違い、最も気持ちのよい恍惚に浸ることができる柔らかい酔いの狭間に身を横たえる愉悦は、気分を和らげ自分を上機嫌にさせる。どちらかといえば苦手なはずの酒を近頃頻繁にたしなんでいるのは、微醺の恍惚に没頭するためでもあった。だが、それも酌み交わす相手による。独酌ならば就寝前に二口三口程度たしなめば事足りるが、より一層満身を巡る淡い高揚を楽しみたいのであれば相応の供が必要だった。

自身の傍らで律義に銚子を構えて、杯の中の減りを注意深く観察している小柄な男の大きな双眸を一瞥し、信長は喉元で低く笑う。
個性的な性状を持ち合わせる信長の家臣団の中でも、一際目立つのが今現在自分の側にいるこの男だった。出自は農民であれど、今は決して低くからぬ地位にありながら、昔と同様偉ぶる素振りもなく、謙虚さを忘れないと同時にとかくよく働く。誰もが難解と敬遠する信長の思慮や言動にも打てば響くように応え、命じられる前に行動を起こしていることも多々あった。そして、疑う余地のない忠誠心と裏表のない明け透けな陽気さを何よりも気に入っている、羽柴秀吉というこの男が傍らにある時の酒程に心地よいものはなかった。何の仕事を任せるにあたっても抜群の安堵感がある秀吉は、通常の仕事ならば無論のこと、不可能とおぼしき要望にすらよく応えた。彼の有能は誰が見ても明らかなものだ。自分が頻繁に用いるのも必然だろうが、他の家臣は妬みとともに彼を用いる自分に、寵が過ぎると不満をこぼす。そんな彼らの嫉妬を耳にする度に、ひどくおかしくて失笑を禁じ得なかった。確かに、人を道具と例えるのならば、秀吉は自身の手持ちの道具の中でもずば抜けて使い勝手のよい物であるのだろう。自身とて極力そのように振る舞っているのだ。彼が最も使える道具であるからこそ用いると。

だが、実際心の底からそう思っているかといえば、即座に否定せざるを得なかった。仕事に私情を持ちこむことを最も嫌うのは自分も秀吉も同じだ。互いに主従を超える絆を有していると分かっていても、公の場では一片たりともそのような素振りを見せることはない。それは互いの体面を立てるためでも、互いの立場を守るためでもなかった。互いの心理、互いへの信頼、互いを熟知しているからこそ、主従としての絶対的な関係性を求められる場では一切の私情を挟まない。溺れるように互いを求め、燃えるように互いを請うているからこそ、心や体だけではなくその才能や忠義に至るすべてを愛し肯定していた。だからこそ、彼の豊かな才覚が潰えるような溺愛など自分はしないし、彼もまた自分の激しい厳格を突き崩す依存や妄信は決してしない。仕事の面でも互いを認め信じている。公式の場で常に冷静でいられるのは、揺るがない絆が確固たる鮮やかさで存在していると、互いに知り過ぎている程に知っているからだった。
だが、時折理知的な自分達の自制心が億劫になることも事実で、私事ではしばしば度を忘れることがあった。他愛なく触れることを望む時でさえ、主従という枷が欲しいものを欲しいと口にする素直さを押さえつける。特に秀吉の強情さは筋金入りとでも言うべきか、信長が何かしら悪戯をしかけて彼の頑なさを剥がしてゆかなければ、望んでいたとしても口づけの一つですら欲しいとは口にしない。

面倒だと思う。

秀吉の健気なまでの謙虚さが家臣としての立場をわきまえてのことだと分かっていても不自由だと感じる。
自分に翻弄され、あたふたと当惑する彼の姿を眺めるのはこの上なく愉快ではあるのだが。

信長は杯を大きく傾け、残っていた僅かばかりの酒を呷った。傍らの秀吉が手早く銚子を差し出したが
「よい」
杯に酒を注ごうとした手を制して、空になった杯を彼へ放った。
「飲め」
と短く命じると、下戸であるはずの秀吉は狼狽する様子など一片も見せず、朗らかな笑みでもって
「では、お言葉に甘えまして、一献」
そう応じ、自身の手酌で杯に酒を注ごうとする。しかし、信長は秀吉の手から銚子を奪い取り、彼の小さな手に収まった杯へ、凛然と澄んだ液体を注いだ。これには秀吉も目を丸くして、殿と慌てた声を上げたが、はっと短く笑って返すと彼の双眸が苦笑に細められる。杯を両手に会釈してから口をつけて舌先で舐める程度の量を口に含んだ彼は、意を決したように一口、涼やかな液体を飲み干した。瞬く間に彼の面に紅潮が広がってゆくのが分かり、信長は喉の奥で笑う。
主君の勧めとあらば、苦手な酒を辞退もせずに飲んでしまうところも彼らしいといえば彼らしく、しかし、自身もまた秀吉が断わらないことを分かっていて勧めたものでもあった。この一杯は秀吉の頑固さや鋭敏さを弛緩させる毒薬の一滴だ。さてと心中で口角を吊り上げた信長は、銚子を片手でもてあそびながら、些少とろんとした表情で杯に残った酒を見つめていた彼を凝視した。
「秀吉」
「はっ」
呼ぶと顔を跳ね上げ、間髪入れずに応じた彼は、律義にも残りの酒を口に含んで杯を空にしてから信長の言葉をおとなしく待っていた。
「ねねは息災か」
おもむろに尋ねると両目を見開いた秀吉が縁側に向かって豪快に酒を噴く。突然の質問に心底から驚いたらしい彼の風体がおかしくなって、信長の口元も僅かに吊り上がった。
「ねねでごさいますかぁっ」
素っ頓狂な声を上げ、慌てて口元を拭った秀吉はばつの悪そうな顔をし、はいと作り笑いで答える。

それもそのはずであろう。

信長の元に秀吉の妻であるねねから、彼の浮気を咎めて欲しいという手紙が贈り物とともに届いたのについ先日のことだ。彼女の訴えに対して、秀吉を叱るような内容を書いて返事をした信長は、私的な事柄であるはずの今回の手紙にわざと花押を記した。
花押とは書いた本人を証明する印で、それを記載された文書は公文書として扱われることになる。夫婦喧嘩の仲裁にしたためた手紙に主君が花押を記すなどということは前代未聞といっても過言ではなかった。だが、信長はわざと花押を記すことで、公文書となった手紙をねねだけではなく秀吉の目にも触れるように仕向けた。手紙にも「この手紙を秀吉にも見せろ」と指示してある。素直なねねならば、手紙の指示通り必ず秀吉に読ませるだろう。

案の定、手紙を返してから一日と経たずに秀吉が登城してきて、信長に会いたいと請うてきた。彼にしては珍しく言い訳を、そして、自分が彼を叱咤する内容を書いたことに対する非難を訴えにきたのだろう。無論、深刻なものではなく、酒の席で口から飛び出る冗談と同じ程度の軽々しい言い訳であり非難だ。

自分に言い募りたい事柄は山程ある癖に、中々口を開かない秀吉に変わって信長が話題を提供してやったに過ぎない。それも単に提供してやった訳ではなかった。彼が言おうと思い立ったであろう頃合いを見計らって、わざと先手を打った。そうすれば、先を越されて秀吉が狼狽することも、言い出しづらくなることも分かっている。彼をからかうこれ以上ない種をみすみす放棄するはずがない。
「信長様、あの」
「で、収まったか」
おどおどしながら言いかけた彼を遮って尋ねる。
「はい……おかげさまで、そりゃもう円満に」
あははという空笑いとともに、平素とは違った低い声でぼそりと言って俯いた彼の様子から、ねねにたっぷりと絞られたらしいことは想像がついて、つい苦笑いが滲んだ。
「で、あるか」
信長はさして興味もないといった風情を装いつつ軽く応じて短く笑う。ゆったりと夜気を吸いこみながら目の前で縮こまる痩躯を、本人には気づかれないよう注視していると、深く嘆息をついた秀吉がのろのろと顔を上げた。目が合う寸前、信長は眉間に微かな皺を刻み彼の頭上越しに庭先の暗闇に一瞥くれる。別段、何者かがそこにいる訳でも、何かがそこにある訳でもない。だが、彼の口から本音を引き出し暴き出すには必要不可欠な一手だ。
秀吉は飲酒に関してのみ言えばからきし才能がない。飲めば量を問わず、身体と頭脳の機敏さを失ってしまう。いつもならば信長の言動には誰よりも素早く呼応し、意図を汲むことに長けた彼を罠にかけるには、相応の手回しや舌戦を用いなければならないが、酒が入れば彼の抵抗は驚く程に緩慢だった。普段ならば信長とてあからさまに行動を起こしはしないが、今宵ばかりは細やかな策略も不必要と分かっている。ねねのことを持ち出された動揺も加わり、今の彼には尚更主君の仕掛けた小さな謀に頭を巡らせている余裕などないだろう。

自分の視線に気づいた秀吉は後方に目線だけを送ったが、会話途中なので気になっているものの振り返ることはしない。信長は、かかったかと内心ほくそ笑んで、小柄な痩躯を殊更に萎縮させ悄然とする秀吉に目を戻した。
「ところで信長様、その」
「読んだか」
手紙をお前も読んだのかという自身の問いに、またも言葉を遮られ眉をひそめた秀吉はそれでも、はいと頷いた。しかし、途端に、はっとして秀吉が顔を上げ、眉を跳ね上げる。
「いくらなんでも、禿げねずみはひどうございますぞっ」
大体、禿げてないっすよ! と声高に言を継いで自分の頭を叩き肉の薄い両肩を目一杯怒らせる。秀吉の怒りが自分の書いた手紙の中にあったとある単語によるものだと知れて、信長はあまりに予測通りな彼の反応に喉をうごめかせた。彼が気にすると分かっていて、わざわざ普段は使いもしない「禿げねずみ」という渾名を手紙に書き添えておいたのだ。逐一自分の張り巡らせた罠という罠に引っかかる秀吉の、悪ふざけにおいては鈍感な様が楽しくもあり愛しくもあり、信長は彼には分からないように鋭利な双眼をやんわりと細める。

彼とは違う人間を相手に戯れる時、通常この程度で自分は満足するのだ。
だが、彼に対しては違う。

一つ二つの罠で完全に籠絡できるはずの彼に、更なる謀をしかけて困惑させ狼狽させ、より深く自身の掌中に陥れたくなって仕方がない。甘やかさない優しくしない、その代わりに、誰にも使わない術で、誰にも与えない愛情で、それこそ稀なる美酒のごとき甘美さと濃密さで彼を捕らえて縛りつける。逃れることも抗うことも、決して許さない苛烈な情熱故に、手を尽くして度を忘れて戯れたくなる欲求は、自制心だけで押さえこめるような代物ではなかった。
「それか?」
言いたいことはそれだけかという意味合いの言葉の大部分を省いて尋ねると、秀吉は即座に問いの意を理解して、頭をかき上目使いに信長を一瞥した。信長は目が合う直前、再び彼の頭上越しに何もない庭先に視線を送る。秀吉も信長の目線を目だけで追って、今度は訝しげに片眉を跳ね上げた。
「いえ、その……妻がご迷惑をおかけしまして……」
はっきりとしない物言いをふんと鼻で笑い飛ばし、信長は片手でもてあそんでいた銚子を床に据える。
「言うてみよ」
包み隠さず言えという自身の簡素な言葉を滑らかに解して、秀吉はぱっと顔を上げると不意に真顔に戻り
「ありがとうございました」
そう深く一礼した。手紙のことについての礼だと知れて、ふっと吐息に微苦笑をまぎれさせる。手紙には秀吉を叱咤するとともに、やんわりとねねを諌める内容もしたためた。信長から諌言を送られた彼女が不平不満を秀吉に言い募ったとしても、喧嘩や口論にまでは至らなかったはずだ。そういった下らないことをするなとたしなめたのだから当然であろう。秀吉もまた妻と悶着には至らずほっとしたに違いなかった。家内での揉め事がこじれる程、職務にも大きく差し支えが出る。丸く収まるに越したことはない。
信長とて単にからかっただけではなかった。自分の気遣いを漏らさず汲み取った彼が礼を言うのも当然と言えば当然であろう。

頭を上げた秀吉は途端、眉間に皺を寄せ
「ですが、禿げねずみは」
といかにも不満げな口調で訴えて苦く顔を歪める。
「言わぬ」
もう言わないと約束して片手を振り、面倒そうに応じた自分の薄く笑った顔を胡乱げに見ている秀吉を逆に強く見返す。すると、彼の渋面が解けて、朗らかな面に淡く狼狽が浮き上がった。
「猿がよいと申すか」
渾名で呼ばれるのならば、禿げねずみは嫌だという彼の懇願は既に見抜いていた。しかし、見抜いていながら敢えて指摘することを好む自分の性分を、秀吉は理解していても回避できるまでには慣れていなかった。予測通り、彼が口内で小さく呻いて眉を八の字にひそめる。目線を逸らして蚊の鳴くような声で
「はい」
そう短く答えた彼に、信長はにいっと口端を歪めた。
「なにゆえ」
自分の更なる問いかけに、殿と恨みがましく呼んだ秀吉はしばし閉口した後、渋々
「最初に頂きました渾名故」
と答えた。ここで、信長にと一言添えれば追求せずにおいたのだが、存外頑固にも言葉を濁し続ける秀吉に小さな嗜虐心をそそられる。
「誰に」
尋ねつつ、先刻と同じ、彼の頭上を通り越して何もない庭先の夜陰を瞥見する。だが、気づいてもそれどころではない秀吉は、口をへの字に曲げて酒のために紅潮した頬を手の甲でこすった。
「今宵はまた一段とお嬲りめされる……」
視線を逸らしたまま独白みたくこぼした彼を鼻で笑う。
「答えよ」
有無言わさぬ強さで命じると、半ば自棄気味に
「信長様にです」
そう、秀吉がとうとう吐露してしかめ面を殊更深めたが、見る間に耳朶が赤く染まっていった。その紅潮は無論、酒のせいではない。
そんな彼を楽しげに眺めながら
「殊勝なること」
信長は揶揄じみた笑みを浮かべてわざと双眼を閉じる。そして、すぐさま薄く瞼を開いてみると予測通り、秀吉は自分が視線を送っていた後方を振り向いて、夜陰をきょろきょろと見回していた。予測に違わぬ彼の姿に、くっと声なく喉で笑い、素早く帯から扇子を引き抜いて彼の後頭部に打ち下ろした。軽い音ともに、あいてっと大仰な悲鳴を上げた秀吉が頭を抑えて自分に向き直る。その両目は訳が分からないといったように深い困惑に彩られ、淡い色の髪と同じ色の眉はまたも八の字にしかめられていた。大声で笑い出したい衝動を辛うじて抑止し、信長は眉間に薄く皺を刻んで彼を睥睨する。
「どこを見ておる」
「えっ、いや! 殿が今しがた……」
頭を抑えたまま、信長が視線を送っていた何もない夜闇を何度も顧みる彼の、今度は額を扇で打つ。再び、いたぁっと大袈裟に喚いて、額を抑えた秀吉の目端に涙が迫り上がった。
「殿ぉっ!」
非難がましく自分を呼んだ彼に、強いて仏頂面を作って見せ
「主君より目を逸らしおった非礼を罰したまでよ」
などと最もらしく罪をでっちあげる。
「いやだって、さっきから何かをご覧になって……!」
「なれば、見つけたか」
何かを見つけたのかと極力不機嫌そうな声を出すと秀吉が口ごもった。
「……何もなかったっす」
「で、あろう」
ですよねと力なく応じて、がくりと項垂れた秀吉の風体に腹の筋肉が引きつり喉が震えた。声を出して笑いたい衝動を必死に鎮めて、信長は笑みを象ろうと震える口唇を無理やり真一文字に止める。

思った通り、自分の悪戯にたやすく引っかかった秀吉に、銚子を瞥見して毒薬の効果に満足する。いつになく緩いと、心中で彼のひどく散漫な警戒心に失笑し、萎れて俯いたその姿を熟視した。平常ならば彼の真情を引き出すにはもっと手間がかかるはずだが、こうもたやすく自分に屈したのはやはり酒の力が大きいだろう。酒の手を借りずとも自身が望む言葉を彼から引き出すことはできるが、信長もまた酔っているせいか、今夜に限ってはひどく気が急いた。元はといえば何を欲しているのか彼が素直に白状してしまえば済む話なのだが、羞恥故か、それとも、たやすく負けることを厭う矜持故か妙なところで意地を張りたがる。いかに頑是なく本音を押し隠しても、自分には秀吉の胸中など手に取るように分かってしまうのだ。無駄な抵抗を続ける彼に多少の意地悪を働いても、お互い様と言う他なかった。

抱き締めて欲しい、口づけて欲しい、そう望んでいると素直に吐き出してしまえば、わざわざ困惑させることも狼狽を助長させるような真似もしはしないものを。
躊躇い踏みとどまる理知を捨て切れない歯がゆさに、自分がどれ程焦れているかなど、さすがの彼にすらも分かりはしないのだろう。

下を向いた彼の顎を扇に乗せて持ち上げると、目が合った途端、秀吉が気まずそうな表情をして視線を逸らした。柔らかい彩りの双眸へ悔しさとともに敗北を認める諦観が滲み、その目は最早意固地を貫く勝機は皆無と悟っている。
されば終幕と心中で苦笑い交じりに呟いた信長は扇を打ち捨てると、片手を伸ばして彼の顎をつかみ取り、背けられた顔を自身の真正面に引き戻した。
「他にあろうが」
言いたいことが、望むことが、あるだろうと彼にしか理解することのできない簡潔さで促してやると、渋面になった秀吉の頬の上が酒のせいではなく赤く染まった。

「お人が悪うございますな」

「うぬが強情に過ぎるのよ」

軽く信長を睨み、低い声音で責める彼にすかさず返して失笑する。自分達にしか解することのできない端的な言葉は、恐らく、他者からすれば難解な暗号じみたものでしかないが、互いには十分過ぎる程分かりやすく、むしろ、これ以上の言葉数は不必要だった。

「あの、いつからお分かりで?」
赤面を隠すように苦く顔を歪めた秀吉が怖ず怖ずと尋ねる。本音をいつ見抜いたのかという、自分と同じ、やはり端的極まる彼の質問に憮然と吐息して

「端からだ」

赤みを増してゆく彼のしかめ面を、はっと笑い飛ばし、もう片方の手を伸ばす。
ほっそりとした肩を掌中に捕らえると、痩躯が一瞬引きつり強ばった。足で杯と銚子を退かせて上体を乗り出すと、それに応じて顔を上げた秀吉が目を閉ざしたまま、信長様には勝てませんわと泣き言みたく小さくぼやいた。たわけと秀吉が思わず漏らした愚痴を嘲笑った信長は、彼の微かに震える瞼の上にやんわりと口づけを落としてから、望みの一つ口にするにも頑固なまでに躊躇うその唇に自身のそれで触れた。



口づけを欲する時、抱擁を望む夜、互いの体温に飢える瞬間、それが欲しいとたやすく口にできたなら、これ程に回りくどく相手の願いを引き出そうなどと、手を回す必要はないだろう。しかし、主従である限り、彼は決して自ら口を割ることはなく、自身もまた彼の代わりに命じてやる程優しくはない。


不便なものだ、主従などという関係は。


そう苦く感じながらも、その不便さを楽しんでいるのは、誰よりも自分達なのではないか、などと酔いの狭間でふと思い至る。難解にして短絡的な、技巧を要する稚拙なこの遊びを何よりも楽しんでいるのはきっと。




互いに少しだけ吹き出し、重なる目線の合間で頷いた。

なんて愉快な、と。













07/06/18 加筆修正
07/06/25 再加筆修正